2011年5月15日日曜日

85回目の

 取次店の老女将は我々の顔と名前を記憶している、もっと若いときは電話番号すら諳んじた。年に2度ぐらいしか出さない季節のクリーニング品を出しに行きながらふと考えた。

 これを五月晴れというのだろうか。たしかそれで姉の長女は「晴美」と名付けられたと記憶している。日差しが強い、紫外線は真夏並みだと昨日の予報で注意があった。
 これをいい陽気というのだろう。今日はつれあいの母の誕生日だという。それで「陽子」という命名をしてもらったのだろうかなどと思ったりもした。

 義兄からつれあいが聞いたところによると、陽子さんは飼い猫と一緒に亡くなっていたそうだ。目と口をしっかりつむっていたらしい、であれば荼毘に付す前に対面した表情とは違う。父の日はつい省いてしまうことがあっても、母の日は、そして誕生日も近かったのでまとめて毎年、何がしかを贈っていた。それが今年は途絶えた。

 今までに義捐金の分配があっただけで、行政からは見舞金も一時金もなにも入ってきていないらしい。当該の被災地の人々はみなそういうことであろうから、困っているだろうと考えられる。いったい、何がどうしてこうなっているのだろう。義兄にはそれ以外にも不安や心配事がいっぱいだ。

 新しい口座を聞いてきていたから月曜、火曜と振り込むことにした。それにしても銀行もまともに営業できていない、基本業務は内陸部の近隣の支店で処理するので時間がかかるらしい。それで銀行の前は行列になっているとのことだ。

 窓を思いっきり開け放つのが好きだ。好きだった。いい陽気になった。晴れ渡る。しかし、あの日以来、開け放つ気にもなれない。が、そうしていてもしょうがないので布団を干す。あの日以来のあの爆発あの溶融(今頃になってそうだと認識された)で危機は迫っている。だからといってどうこうしているわけではない。多かれ少なかれ(それが問題だろうが)人工的放射能の環境下に棲息せざるをえない状態になっている。海などはとくにとりかえしのつかないことになっていっていると考えられる。多くの思考停止と思い直しを繰り返しながら、漠然と「日頃の生活」をおくろうとしている。YOGA、今だけのことを静かに考える。

 被災後生き残ったもろみで絞られた地酒「伏見男山」の一升瓶を持ってこれから飲み会の東京の会場に行こうと思う。皆に予告しておいた。かろうじて作られたわずか320本のうちの数本、そのうちの1本だ。その男山本店は大島航路に面した海沿いにあった。ここは魚町という。その名のとおり昔は魚市場があって賑わいの一等地だった。そこに構えたお店は大正年間につくられたモダンな建物だった。津波に呑まれ崩落し上階部だけが残った。そして実家との間の家はみな流された。「全壊」に等しいが実家の並びの一角は建物が残った。だから、実家から男山本店の痕跡たる上階部が目の前に見える。工場は実家の裏手を少し上ったところで、正門前まで水は押し寄せたがそこで止まったらしい。実家からはすぐそこだという感覚だ、あの日、四の五の言わずに何故逃げなかったのか。義父母だけがそうだったわけではない。生き残ったつれあいの友人や義兄も、家に2階があって、いやその先の物干し場があって、いや3階、4階があって、それもなにも建物がながされなくって一命をとりとめている。一瞬に近いことは紙一重で運命を分けた。逃げ遅れた人、家屋に居て一緒に流された人、逃げたが道路に出た人、様々なひとが犠牲者25,000人近くのひとりひとりになっている。

 百日目ぐらいにあたるからと摺沢の叔母の音頭もあって来月下旬に葬儀と、千厩の従兄弟が発起人になってくれて「偲ぶ会」を催すことになった。それに行く準備を始める。長男も行くと決めた。

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