2011年4月10日日曜日

気仙沼記・2

 もう先々週の土曜日のことになった。朝7時54分に駅前から避難所のケー・ウェーブに行く循環バスがあるというのでこれで行くことにした。日に2本しかない。有料バスで450円もした。利用者もうちの家族とあと二、三人しか乗っておらずどれをとっても不合理に思えた。このバスは新市街地、南気仙沼の方を行く。こちらの惨状も表現のしようがない。いくらでもデジカメにとるのだが、あとで見ても臨場感はない。8時半前には着いた。大きな体育館だ。  

 義兄の頭の中を占めていたのは「生活再建」ということだったのだろう。当然のことだ。        

 今の今まで三世代、孫が生まれたので四世代で暮らしていた。まだ頼りにしていた両親を一度に亡くした。「遺産相続」をしなければいけない、「名義をどうするのだ」いろいろな不安が頭をよぎる。住めなくなった家をどうするのか、収入は…。思いつめているように見えた。    

 家の近くで街の中にあって被災以来3週間近くいた避難所を退去するようにいわれ郊外の体育館の避難所に越してきたのは30日、つい3日前のことだ。大きな体育館の一角でご近所のみなさんと一緒だったとはいえ、ここでは新参者になった。北側の端で、「開かずの扉」の先は遺体安置所になっている。来たばかりのせいか、パーテーションもなく一人一畳分のスペースで何かモノを置けばそれだけで狭くなる。バカでかい天井でうすら寒い、訪ねたときは午前中で厚くカーテンが閉められており、光がいかにも競技用の光線で生活に似合う光ではない。私には陰気臭く感じられた。日中は、動けるものはみなここを離れ、なにがしかしており、残ったものは年寄りぐらいのもので、それもまだうまくコミュニケーションが出来ているようにはみえなかった。衝立もなくぎこちないご近所付き合いが始まっていた。        

 ともかくも5人で面と向かい、慰みを伝え持参した物資と香典および見舞金の袋とそれを一覧にした目録を渡した。中味は後日連絡を受けて振り込むことにした。私の親戚から住む家の提供の申し出があって、これも伝えた。金沢と鹿児島である。鹿児島のことは当初本気で考えたそうだが、現実にはできない相談だった。当座を凌ぐだけのことであれば、我が家でもどこでも来てほしいと申し出たが、どうもそのことは頭にはなかったようだ。息子がやおら大きなファイルを取り出し、法的な支援(金)の見通し、実際の手続き、を知らせた。実はこのたびのような境遇への支援策への知識と情報がなくて困っていたそうだ。灯台下暗しで行政からの情報がはいらない、新聞は提供されるが早いもの勝ちで入手しづらい、様々な不安が募っていたようだ。段々に判ってきたが、義兄は家計を仕切っていた父の実印や通帳やカードを家の中のガレキとヘドロの中から探し出そうと必死になって毎日無理を重ねていたらしい。心にゆとりはなかったように見受けられた、無理も無い。慰め、やり方を伝え安心させようとするのだが、それらのことに固執してしまって目がテンになっている状態だった。すぐ後で決まったことだが、津波で1階の天井以上が浸かったところは「全壊」とみなされることになった。      

 この間ずっと親身になって支援に駆けつけてきている母方の従兄(岩手県)と、明日の納骨の準備をすることになった。その「準備」の意味するところがわからなかったが、それは当日になってわかった。

       
 息子の準備してきた法的支援策ないし手続きや見通しは、それこそこの避難所にいる人々の知りたいあるいは相談したい内容だと考えられた。息子は福島から一時的に避難してきたさいたまアリーナでもボランティアを引き受けた経験を既に積んでいた。身分証明書は持っていたので、この避難所の運営事務局に申し出て無料法律相談をかってでることにした。残って13時から20時まで、翌日は8時半から火葬に間に合う10時半までこれをこなした。相談に来る人は朝か夕方しかいないということでそういう設定をした。ニーズはやはり多かったようだ。帰りは足がなく、駐車場にいた人たちに片っ端から声をかけてそれで帰って来られたらしい。ばあちゃんが生きていたら、人の役に立つことをして「たいしたもんだぁ」と褒められたことだったろう。『三陸新報』を見て、法テラスが仮設の事務所を開き活動を再開するということを知り、帰る日に報告と挨拶によってきたそうだが、全ての記録が流されてしまい困り果てていた様子だったのこと。    

  私たちはもう一人の友人「サンダー」に連絡をとって会うことにした。エースポートという桟橋で待ち合わせすることにしたら、そこに残っていた3階建ての白いビルは同級生の「さきちゃん」の実家でこの人も3階に逃げてなおかつ家が流されず助かった。家の後片付けの最中に鉢合わせしたらしい。みな、すっぴんで恥ずかしいというが、そんなことに構っていられる状況でないとも思っている。「サンダー」も「さきちゃん」も同級生どうしで結婚している。もちろん実際の被災地は電気も水も来ていない。この後片付けは難儀だ。前の道路が舗装ではなくなっているのでどうしたのかと訊いたら、沈下したのだそうだ。港を回る道路なので早くに土を盛って復旧させたらしい。そもそもどこの道路も当初はガレキや車や場所によっては船!が道を塞いで近づくどころではなかったらしい。息子が歩いてきたところによれば、新市街地はそんなところがまだ残っているという。義姉によれば、魚の腐敗臭、重油の臭いが粉塵とともにいたるところにあるらしい。        

 サンダーの家にお邪魔することになった。道すがら、二人は話しているのだけれども、道の脇に船があっても、車がひっくり返っていてもまるでもうどうってことはないかのように自然に歩いていた。湾を見下ろす高台にある。それで家は難を逃れた。また、唐桑半島および大島の亀山に火の海を見た。「船がくるくるまわってそれに油で火が点いているの」(お母さん)。当夜は崖の下の都市ガスのタンクが爆発しないか生きた心地がしなかったそうだ。水も電気もそれっきりである。津波が来てから雪になった。雪をかき集めて風呂場に貯めた。トイレに使おうとしたが、いざ使うにはシャーベット状で溶けなかったそうだ。あまり持っては来られなかったが、電池式のランタンや即席食品を差し入れる。水は自衛隊が給水タンクで持ってくるようになって難儀しなくなった。しかしながら、当初、避難者を受け容れたものの家が残った自宅避難にはなんの救援もなくそれこそ飲み食いに困ったらしい。今でも水と電気が復旧していないので、明るいうちに夕食を終えただ寝るばかりだという。        

 次に被害が甚大だったと聞いた鹿折地区に行こうと考えた。

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