2012年8月22日水曜日

4年目の夏に


今日のようにやはり暑い日だった。消灯された特別養護施設の端の一室、母の部屋だけがこうこうと蛍光灯が点きドアが開け放れていた。介護士、看護師の方が待機していた。意識のない母には紫斑ができ手足の末梢が冷たく、姉とつれあいと私の三人で必死にマッサージみたいな摩擦をした。呼吸は酸素マスクでほぼ強制的のようにさせられていた、がそれも途絶えがちだった。ときに容態を診に入室して来る看護師さんがやるように摩擦をすれば、心臓の動きを示すグラフが動いた。危ないとなればサチコさん、サチコさんと看護師さんや介護士さんが励ますように呼びかけた。

今夜から深夜にかけてが、母の最期だった。だから日付的に言えば明日23日が母の命日だ。そうして「よく頑張ったねぇ、サチコさん」と看取られて逝った。

明け方、夜勤開けの介護士さんが最初に葬儀場に線香をあげにきてくれた。そのときも「よく頑張ったねぇ、サチコさん」だった。

今日は我が家のゴーヤに花が複数咲いていた
正直言ってつらい仕事です、そんなとき不思議にサチコさんに声をかけられました、ほっとさせられることがありましたと複数の介護士さんから聞いた。

天寿を全うしたとはいえ、看取ることができたとはいえ、母親を失うというのは心になにかぽっかり穴が開いたようなものだった。それも月日が忘れさせる。4年が経った。兄が墓も移したので、故郷からもあしが遠のいた。

その間につれあいの両親の津波による思いもかけぬ死。不慮の死。なぐさめようもなかった。実家もなくなる。叔父夫婦一家もほぼ全滅。そういうことに直面した、劇的に。

私たちに親がいなくなり、故郷も事実上失った。そうして私たち夫婦が祖父母の立場になった。つれあいの姪っ子夫婦には二人目ができたらしい、そしてこの秋には陸前高田の高台に家を建てる。たったこの4年の間のことだ。

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