ふるさとは「遥かなる大草原の家」というわけにはいかない。港町の中にある。
駅まで義兄が車で迎えにきてくれた。新幹線が動かなくて遅れたとはいえまだ夕方の6時前だ。ローカル線は律儀に新幹線の到着を待っていてくれて飛び乗れた。夕闇をあきるほど見ながらとことことでようやく辿り着いた。街のはずれにある駅からはずっとずっと商店街が続く。街灯は両腕が伸びたように2灯あって昼白色で明るい。往時は賑やかであったろうことは想像できるが、いくら真冬の日没後とはいえ人っ子一人いない。商店はほとんど閉まっている。まっすぐ行って鉤型に曲がって、また、まっすぐ行って、信号で止まっても人もおらず意味がない。まっすぐ行って、また、同じように曲がる。少し行ったところにシャッターを開けたところがあって、そこで止まる。ああここだった。つれあいの母と父の姿をとらえ、手を振る。
実家はうなぎの寝床だが、二軒続きの家になっている。隣の家を購入したからだ。北洋漁業で羽振りがよかったのだが倒産して夜逃げ同様にいなくなりいつしか競売にかけられた。二階にりっぱな座敷があるのだが、階段の昇り降りがつらいらしく、階下のトイレに近いところに小部屋の寝室をつくり義父母は暮らしていた。
姪っ子たちが昔ながらの盛大な結婚式を挙げて早や3年が過ぎていた。男の子が2歳半になっておしゃべりができるようになったばかりらしい。かわいい盛りだ。ひと目見てどこかで会ったことがあると思ったら、目元が結婚式で見た婿殿にそっくりだ。特徴がある。
つれあいの父母のことをじっちゃん、ばっちゃんと呼び、祖父母になる義兄たちのことはジジ、ババと区別するらしい。若夫婦は3階にりっぱな新居を用意してもらったから、婿さんの「むっすう」はまるで入り婿のようだ。姪っ子は看護士で夫は介護士。
そういうことで義父母は四世代同居同様に住んでいる。義姉がスーパーのパートに出て、食事は義母がつくっているらしい。具沢山の味噌汁などは、つれあいのルーツがここにあるということがわかるような作り方だ。
ここはかつて日本一の水揚げ港になったこともある。小学校の社会科で習った頃だ。「トウホク」とはどういうところだろうと思いを巡らしたことがあった。遥か昔のその頃だ。まさかそのようなところの人と連れ添うとは思ってもいなかった。いや、深層心理にねらっていたのかもしれない。
往年の栄え方はさもありなんと思われる老舗の構えもある街並みだが、今は例外に洩れずシャッター通りだ。バイパスがあってそちらに大型店があるらしい。義姉もバスに乗ってそこに勤めに出ている。
この商店街のはずれに地元の魚を使いJRの宣伝誌や雑誌などで取り上げられて有名になった居酒屋があった。実家からは歩いて行ける。出来て20年ぐらいらしいのだが、地元の親たちは行ったことがなかったらしい。所望してそこで、ご馳走になった。過疎地の分校が出身のむっすう君も初めてだったらしく、一生懸命ブログ用の写真を撮っていた。
たたんだお店の入り口にまるで小さな事務所のような小部屋がこしらえてあって、丸椅子や簡易なテーブルが置いてあり、石油ストーブが点けられている。ラジオを流し放しで、義父母は二人で新聞でも読みながら終日ここで過ごしているらしい。実は隣近所のお仲間の溜まり場のために作ったらしい。二人揃って体にどこも悪いところはないらしい。だから高齢にもかかわらず薬を常用することもない。
それから1週間が過ぎた。ふるさとは閑散としていたが、92歳と86歳の義父母は息災であった。辺鄙なところだし、第一、元気だったし、もうしばらくは行かなくていいね、と言うつれあいを私は諌める。
2011年1月22日土曜日
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