家族が集まり、飲んで食べて他愛のないテレビを観て、“お客様をする”いい歳をした子どもたちを、ただただ接待したことを悔やんでいる。何を話し合うでもなく、過ぎてしまった。
我が子を不憫に思うこともある。明日からみな仕事で気を抜けなくなる。つらいこともあるだろうから親元で息も抜かせたいし、ゆる~く過ごさせたいとも思うが、何か違う。そのことを三年前の正月あたりから考えているのだが、お嫁さんも加わったり赤ん坊もできたりで、てんやわんやで過ぎてしまった。
お節の素材のなんたるか、今年の調理の苦労や工夫はと母親が話すが上の空でそれまでだ、まるで「滅び行くローマ帝国の貴族の宴会」のようにひたすら飲み食いを続ける。この日のための暴飲暴食ぶりだ、それも悪くはないのだが。我が家の気風、文化みたいなものがなかったことに気付く。久しぶりに集った家族の絆というものに理屈もへったくれもないものとは思うし、現にみな集まってわいわいとやっていることだけで充分とは考えられるが、いまひとつ大人になれていない…、親である私という人間ができていないことをそのまま反映しているように。私は小さいとき「たまに美味しいものを欲しいだけ食べたい」とは確かに思っていた。今、お金さえあればそれはいつでも実現できる。世代間の価値観のずれもあるのだろうが、欲望を実現するための安楽な生き方あるいは守りの生き方、それをひたすら追い求め(させ)ているように感じられて、考え込んでしまった。ある意味、贅沢な悩みでもあるのだけれども。
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