薩摩富士開聞岳を望む番所ヶ鼻での二人 |
2010年までの10年間、つれあいの母方の従兄弟どうしで親たちを招待して毎年「いとこ会」を催していた。東北の近場の温泉宿の1泊2日が例会。いとこたちは東京近辺から出向いてくる。いつからか「むこさん」である私も参加させてもらうようになった。そのうちにリタイアしたほかの従兄弟の「むこさん」も加わるようになった。母方は岩手南部の中山間部の農家の出で、このいとこさんたちは、私に言わせれば、東北のいかにも大人しい人たちで宴会と言ってもどんちゃんやるでもなく大酒を飲むでもなかった。それに加わった私を含む「むこさん」が大酒を飲むので途中から少し雰囲気が変わった観もあった。基本的には静かな、せいぜい旅館の備え付けのカラオケをやる程度だった。幹事は輪番制で、うちに回ってきた。三陸海岸である志津川の旅館にも、掘って温泉が出たというので、そこで開催した。宴会のお開きにあたり、10年の節目になった、それと年老いたので一端ここで区切りにしよう。あとはお前たちいとこどうしでやってほしいと、母がいわば「宣言」をした。それも無理もないというか、自然な流れだった。
志津川を通るのは気仙沼線だ。叔父の軽自動車で駅まで送ってもらって時刻表をみてびっくりした。昼の12時過ぎまで上りの列車がない。2時間半ほどある。駅前にはチリ地震による三陸大津波のときの高さが示してあった。人の背に加えて腕をのばしたほどの高さだった。すごかったのだなという実感と、スマトラ沖大津波の1年後に見たヤシの木の高さまできたという光景を思い出した。ちなみに、チリ地震の大津波のとき、つれあいの気仙沼の実家は港のすぐ近くであったにもかかわらず、「ちゃぷちゃぷ」と浸った程度であったらしい。
あまりにも時間があるのでどう過ごすかということになり、ならば叔父さんの家に行こうと提案した。ところが、つれあいはその場所を知らないという。志津川にみんなで泊まって、いらぬ気を使わせるからと両親もとくに叔父には「あいさつ」を通していなかった。それで、実家に住所や電話番号を聞くわけにもいかなかった。私は幼い時から感が強い側面がある。商売をして、かつてはそこそこ成功したというから、街の中にある、海の側に繁華街らしきものがあるようだから行けばわかると考えた。駅から適当に歩いて、道に迷うこともなく叔父の店をみつけたのには、自分自身驚いた。チリ津波でエライ目にあった経験から家を3階建てにしていたのと屋号から叔父の店に違いないと考えられた。外から様子をみるだけにしようと言っていたつれあいだったのに、店の前に佇み、意を決して店内に入り声を掛けた。
叔父の家は男の子4人だったので、姪っ子のつれあいが叔父には可愛かったらしい。私たちが結婚した時、九州のどこの馬の骨と結婚したのかと切々とお祝いの手紙がしたためられてあったのが印象に残っている。とにかく遊びに来いと。慶弔のときに会って挨拶をしたことはあったが、訪ねて行くことはしていなかった。その不義理が少し気になっていた。
店の応対に出てきたのは従兄弟だった。店を継いでいるわけではない三男だった。あとで聞いたのだが、教師をしていて病になり親元に帰ってきていたらしい。あらためて玄関に通されて、叔父叔母に歓待されたひとときを過ごした。叔父は学徒動員の士官として戦争にも行き、若い時は柔道をやっていたらしく巨躯だったが、すでにペースメーカーをいれて健康がすぐれないようだった。私はいつもは記念に写真を撮るのだが、このときは何故か遠慮してしなかった。昼食に出前のお蕎麦までご馳走になり、従兄弟には駅まで車で送ってもらった。六月のことである。
年が明けて一月、JR「大人の休日クラブ」の東北乗り放題の切符を利用して、どこかの温泉と実家の両親を訪ねることにした。私は母を失っていたので、つれあいの両親に孝行をしたかった。去年会ったばかりだからといって遠慮するつれあいを少し「無理矢理」に誘った。雪の中の山形の白布温泉の西屋に一泊した。福島に引き返し新幹線で一関に向かうはずだったのが、下りが不通だった。新幹線は今どこにいるのかと駅に尋ねたら上野に止まっているという。思わぬ足止めをくらい、まあ県庁所在地だから見物でもして行こうと駅前に出た。なにか郷土料理でも食べさせる店はないかと彷徨い歩いたが、驚いた。どこにでもあるようなチェーン店の食べ物屋さんしかない。デパートに入ったが、ここも食品売り場は大手スーパーの商品を導入したどこにでもあるようなところだった。仕方なくチェーン店の牛丼でも食べたように記憶している。
気仙沼にようやく着いたのはすっかり夕方になっていた。実家の並びにある「福よし」という魚料理のお店につれて行ってもらい皆で夕食をとった。JRの広報誌などでよく紹介されていた店だ。父、兄夫婦、姪っこ夫婦にこうちゃんが一緒だった。姪っこの夫がブログをやっていると聞いた。
母親が敷いた寝床に並んで寝た。そうそう「どんぷく」ってこういうふうに寝るときに使うのってつれあいは懐かしがっていた。その丹前みたいな「どんぷく」の中に身体を入れて東北らしく寝た。家の風呂に入れと勧められたが、熱い温泉に朝も入ってきたから、遠慮した。あとで聞いた話だが12月に改装したばかりのジェット式浴槽だったそうだ。
店はほぼたたみ、店のなかにプレハブのような応接室をつくりストーブを炊き老夫婦はいつも二人でいるそうだ。そしてご近所の自称「三羽烏」の溜まり場、社交場にしているそうだ。午前中少し二人で港を散歩して光景を写真に収めた。
義母は背が縮んでおりました最後の写真 |
帰りの大船渡線の車中で「父も母も元気だったしね、いいよそんなに来なくたって」とつれあいはつぶやく。なにしろ、遠いところではある。「そうかなぁ」と私もつぶやいた。
私には多少霊感があるのではないかと、結果を思えばそうこじつけたくなる。
3月11日の大津波がなにもかも奪ってしまった。あれもこれも最後になった。一万数千人の犠牲者のなかの二人と五人。
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