2012年3月7日水曜日

一周忌


つれあいは夜行バスで出発した。両親の一周忌になる。
私は職業訓練学校の入学手続き日と重なって行けなかった。ごく身内でやりますからと言われた。

あとから考えれば予兆となる大きな地震が前々日の9日にあった。翌日の朝、つれあいが母親に電話で安否を尋ねた。「大丈夫だったから…」と聞いたのが最後の会話になった。いつもの調子だったらしい。「逃げるんだよ」と念を押したのだけれども。

その前々月の一月に二人で訪れた。元気だった。帰るとき、自宅の前で写真を撮ったのが今生の別れになった。

あの日、私鉄は動き出したそうだが、大混乱だという話で身動きがとれず職場に留まった。情報はパソコンしかなかった。画像はなにもみなかったように思う。上の階でテレビをみることができるそうだと聞きつけて、相棒たち幾人かと一緒に階をあがった。それが、23時ごろだったと思う。スイッチをいれれば、いきなり気仙沼が火の海だという上空から中継される夜の映像が流れ続けた。息を呑んだのはいうまでもない。そして偶然というか、それまで通じなかった携帯電話が通じた。つれあいからの半狂乱状態になった電話だった。

午前一時過ぎぐらいだった。同じ沿線に住む職場の同僚一人と一緒に歩いて西武新宿駅に向かった。沿道には意外にも地震による被害は見られなかった。最初は人のあまり通らないところを通ったが、明治通りに近づくにつれ、黙々と歩く人々の群れのなかにいた。もう混んではいなかったので、みな速足だった。駅に着いたら身動きがとれないほどぎっしりだったが、みな黙々と並んで改札に入れる順番を待っていた。駅員や警官の誘導のままに整然と行動をし、電車を待った。同僚と何か会話をしながら帰宅の途についたが、全体が黙々としたような記憶が残っている。異様な体験への興奮と疲れが入り混じっていた。帰り着いたのは3時過ぎだったと思う。次の日は土曜日だったが、当番だったので律儀に出勤した。JRが遅れていて出勤に3時間ほどかかった。物流は止まり、あまり仕事にはならなかった。職場からみると、なにか息を呑んでいるような一瞬真空状態になったようだった。

安否がわからなかったつれあいの兄から初めて連絡がきたのは最初の月曜日だった。両親の遺体が見つかったというショックな報せだった。自宅が津波に襲われたらしいというのは、同居している孫娘の夫のブログで伝わっていた。当日、被災直後のブログへの書き込みだった。まさかと思っていたことが現実になった。そして、他の家族はかろうじて生き残り近所の人と一緒に避難所にいるということがやっとわかった。一刻も早く救援に行きたかったが、身動きがとれなかった。

つれあいは、一周忌を終え、再び深夜便のバスで帰ってくる。年老いた両親もこの便を使って我が家に来たことがあった、その体力に驚いたものだ。そうだったので、あまりに突然の不幸がうそのようだった。多くの犠牲者、被災者の人々と一緒の3・11がやってくる。

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