2010年3月11日木曜日

語り継ぐ


記憶が覚束ない。領家さんの家はクズ屋さんをしていた。廃品回収業だ。その近くに粉屋さんがあったと思う。製粉をしてくれる。そのお隣はかしわ屋さんだった。
お米を粉にしてもらうようおつかいに出された。領家さんちには同い年の女の子がいたからその辺には行きたくなかった。上には二人ぐらいお兄さんがいてみんな体格がよかった。なんといっても同じ町内じゃなかったから、領域ではなかった。

米の粉を煎って香ばしさをつけ、たっぷりの砂糖を混ぜていくども捏ねてつくったと思う。「いこ餅」という。郷土菓子だ。「煎り粉餅」が短くなったのだろう。ふるさとはなんでも短く言う、だいこんは「でこん」だ。どこのお菓子屋さんでもつくっていた。お菓子屋さんのつくるのはなめらかだった。それを競っていたように思う。プロの作品だ。私が小さいころ母はよくつくっていた。母のつくる生地はざらざらしていて私はそれが好みだった。“おふくろの味”として刷り込まれている。ある朝早くから額に汗するようにつくっていたのを覚えている。南国の女(おなご)だ、ふんふんと鼻歌で調子を整える。東京の大学に行っている長男、私の年の離れた兄の誕生日に間に合わせるために一生懸命につくっていた。私がお使いに行ったあの粉だ。出来上がりを私も楽しみにしていたが、私には端切れ、つくり損ないしかくれないで、出来上がりのほとんど全部を東京の兄の下宿へ小包で送ってしまった。家父長制と男尊女卑は日本の“本場”だったような薩摩だ。「母ちゃんいこ餅はどげんなったと?」「兄ちゃんに送りもした、おまんさあたちには無かよ」がっくりしたのを覚えている、げに食い物のうらみは恐ろしい。兄ちゃんなよかねぇ。今でも覚えていてこうやって文書になるな。3月10日は兄の誕生日。 「歳を重ねるごとに新しい自分を発見する。ぞくぞくすることです」とメッセージを送る。

そして東京下町大空襲の日だった。経験は無いわけだが、体験か経験のある人の話を聞いている。そして聞いたことも無い人たちに語り継がねばならない。遠慮はいらない。語る、伝える技術だし、気持ちだろう。新書と言っても論文調でちと難しい気がするけれども荒井信一さんの『空爆の歴史』(08年8月、岩波)に「なにがどうなって」ということが詳しい。

昨夜のあれは熱演だったな。きちんと本人にそう伝えられなくて悪いことをした、そもそもできないけれど。うまく言えないから断片を木の芽時風に妻殿に語る。不精してKANAさんにはまだ送っていない。

*鹿児島に行くことがあったら寿屋さんというところブランドの「いこ餅」(630円)が私のお奨め。私のイメージに近い。ちなみにかごしまの生協はこれをふるさとブランドにしている。ここで買えば同じものが398円、お買い得だ。「いこ餅粉」はなんといっても古城製粉のものがお薦め。

2 件のコメント:

ハマタヌ さんのコメント...

いこ餅、食ったことがありません。食いたい(笑)。壽屋さんですか。今年、先祖の墓参りいかねばならないのでぜひ食べたいものです。

3月10日の東京大空襲は、まさしくジェノサイドです。カミさんのばぁちゃんが死んでいます。骨すらわからなかったといいます。たったひと晩で10万人の非戦闘員を殺しました。もはや「東京大虐殺」とよぶべきでしょう。

それも、風上から焼夷弾を投下し、そして時間をおいて人々が逃げまどう風下も焼夷弾で遮断しました。そして10万人を生きながらに焼き殺しました。

私は絶対に人として許してはならないことがあると思います。そのひとつがこの1945年3月10日の東京です。長崎より死亡者が多いのに、あまりにも知られていません。

余情 半 さんのコメント...

 嗜好品は好き嫌いがあるのでなんともいえませんが、我家族は皆「いこもち」を好みます。

 軍事施設や軍需工場を破壊するのではなく、無差別にしかも大量に住民(民間人)を殺傷し生活圏を破壊すること、アメリカにとってはこれが軍事的成果を収めることになっていました。実に一晩で死者10万人以上、負傷者40万人、家を失った者100万人推定。殺虫剤を撒くこととたいして変わらない感覚です、ベトナム戦争でも目標圏内における皆殺しと生活圏の徹底破壊に受け継がれた戦略のように思えます。
 当時政府は防衛もできず、この後に沖縄を盾にするだけで無為に過ごし、国土は焦土と化し、核爆弾攻撃を蒙ることになります。幾多の生身の人々が死に傷つき家を失いました。

 歴史としては言えますが、同時代に生きた人にはたまらない話です。海老名香代子さん、そして3月10日だけのことではなく小田実さん、手塚治虫さんなど有名無名の多くのひとびとの語るところであり、語らぬことのできぬ犠牲者の無念であると考えます。