2009年9月3日木曜日

つばくろめ

 学校の勉強はとにかくきらいだった。何もかも点数を取るためにと考えられたから。
進学コースのクラスにいながら、ほぼ落ちこぼれ状態だった。
高校3年のときのクラス主任は現代国語の先生だった。いい先生ではあった。

『のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり』

 その当時、教科書で習ったこの句がずっと心に残っていた。
教師はたったこの一首で、この情景をとうとうと「授業」してくれた。そして、どの辺のことが受験にでるかという要領も。これがいつも私には白んだ。しかしこころには残った。

斎藤茂吉「死にたまふ母」(初出誌『アララギ』)

 嘆息、放心、・・・、うまく表現できないがそのようなものを感じていた。

 級友たちのお母さんたちよりうちの母はずっと年寄りだったので、少し現実的にいつかこういう日が私にも来るのかなと思っていた。斎藤茂吉と言えば北杜夫の父で、作品の句を読めばとても難しく感じていた。

 施設にはこういうときの出口と門があるのだろう。ストレッチャ-に乗せられた母の遺体を、迎えにきた葬儀社の車(洋式の霊柩車だった)に鄭重に乗せていただく。いつのまにか深夜勤務の皆さんが集まっていて、合掌の姿で送り出していただいた。私はふわふわとした感じで、レンタカーのところに跳んで行き、その車を追う。そのときの深夜の帳(とばり)のあの施設の出口の明るさが妙に頭のなかに絵コンテのように残ってしまった。母が二度と帰ることはない。

 飛行機で来て、レンタカーで来た。酸素吸入で小さな上体があがりさがりして呼吸をしている母に対面して、明確に意識の戻ることはなく看取った。「死にたまふ母」とは時代が違うが、その情景となんとなく重ね合わせていた。

 人はいつか死ぬ。つばくろめ、つばくろめ、そのときが来たのだな、とふわふわした体調を感じながら、ずっとそう考えていた。

 田舎では一日の時間が変化していくなかで飛んで来る鳥も変わる。この葬儀場の周りは、かつて、あたり一面田んぼだった。私が高校を出るまでは確かそうだったはずである。よく覚えていない。鳥が飛来してきたり、梁に止まっているような情景はない。山の中のすごく寂しいところが火葬場だったと記憶しているが、よく整備された施設に変貌していた。

 名も成して、いい年をして斉藤茂吉というひとはなんて甘えんぼうなんだろうと思っていた。昔のことだ。

『白ふぢの垂花(たりはな)ちればしみじみと今はその實の見えそめしかも』
『みちのくの母のいのちを一目(ひとめ)見む一目(ひとめ)見むとぞいそぐなりけれ』
『はるばると藥(くすり)をもちて來(こ)しわれを目守(まも)りたまへりわれは子(こ)なれば』
『母が目をしまし離(か)れ來て目守(まも)りたりあな悲しもよ蠺(かふこ)のねむり』
『 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生(う)まし乳(ち)足(た)らひし母よ』
『灰のなかに母をひろへり朝日子(あさひこ)ののぼるが中に母をひろへり』

0 件のコメント: