2009年9月1日火曜日

弔問客


 母と一緒に暮らしたのは母の人生98年のうち、わずか18年である。親といえども断片しか知らないことになる。まして遠く離れて40年近い。ひとり暮らしの母は話し相手になってくれる人がいれば、一時間でも二時間でも引き止めて話をしていたらしい、さもありなんと思う。

 死亡広告は各新聞の地方版に事務的に掲載されるらしい。同意を求められ合意した。『読売』『朝日』『毎日』など全国紙とはいうが、地方に行けば地元紙の方が圧倒的に部数が多い場合がある。私の故郷もそうだ。『南日本新聞』という。母はこの新聞に大きく広告を出してほしいと言っていたが「大言壮語」のように聞こえて出しそびれてしまった。悪いことをした。「生花」は25本、大きな斎場で母の思い描いていたような壮大なお葬式になった、だが弔問客が多かったわけではない。叔父叔母、本家筋にしか連絡しなかった。私たちはむしろ来る人がいるのかなとさえ思っていたが、そこは田舎のこと、聞きつけて来ていただき、何十年ぶりかの再会を果たした。割り切れる都会とはちがう。

栄恵おばさん
 歳をとってはいたが、まだしっかりしていたころ母はしみじみと言った。お友達が亡くなっていくのが一番寂しいと。
 「幸子さぁん、あたいを置いてはっちきゃしてぇ(私を置いて逝ってしまって)」母の遺体にすがり泣きついたご老人。「あたいな小学校も女学校も師範学校も一緒ごわしたと…、あん人の方が少しばっかい勉強ができやった」受け付けのしっかりとした署名を見れば上野のおばさんではないか。この歳で亡くなって、母の友人が存命とは思わなかった、しかも元気だ。竹馬の友で、親友でライバルだった。いつもうちに遊びに来ていたおばさんだった、「こげん、おおきくりっぱになって、んだ、もしたん」「お母さんがおはんのことをいつも自慢しといやしたよ、4人もお子さんがおいやしとな」「おばさん、嫁です」「んだ!」とおばさんが妻殿を「見上ぐごった」という。

老婦人
 上の姉と長く話し込んでいたのは、一人は中嶋写真館のお姉さん。裁判所の並びにあった。幼いころ姉に連れられて遊びに行ったとき撮ってもらったスナップ写真が残っている。家にはカメラがなかったので、小さいころの写真はほとんど残っていない。長じて受験写真を厳かに撮ってもらったことがある。もう一人はお豆腐屋さんのお姉さん。ひとり娘で中学を出てそのまま家業を手伝った。みなが感心する働き者だった。朝の早い仕事だったので、おじさんは夕方早くには銭湯に入っていた。頭髪が毛沢東に似ていた。私は片腕が無いと思い込んでいたが、今回おじさんは片足のほうがないとわかった。そういえば、移動はいつも自転車だった。おふたりとも白髪が目立っていた。

施設の介護士のみなさん
 母は死ぬ直前までお化粧とおしゃれを忘れなかった。晩年のことだが、衣服の色は藤色と紫を好み、それ以外はどんなものを買ってあげても頑として着なかった。その辺ははっきりしていたが、私が育つころは知らない好みだった。なんだって着ていたような気がする。施設では仕上がった洗濯物はリハビリのため各自でたたむように仕向けているようだが、母は「一度もしたことがありません」とにこにこと悠然としていたそうだ。そんなお嬢さん育ちだったことがあったのだろうか。私には、眉間に皺を寄せ、こめかみが浮き出て立ち働く母の思い出しかない。
 「幸子さんはおしゃれを欠かしませんでした。一度間違えられて眉毛をマジックで書かれたんですよぅ」仮通夜だったか、通夜だったか介護士さんのひとりがエピソードを話してくださり大爆笑で場が和んだ。

淳平さんの奥さんと娘さん
 淳平さんは父の甥で、淳平と呼び捨てにし、淳平さんは叔父さんと呼んでいた。序列からいえば当然だが、歳は10歳ぐらいしか違わなかった。だから私とは従兄筋だが「おじさん」だった。とうの昔に亡くなったが、その奥さんが存命で娘さんに支えられて参列していただいた。淳平さんには私と同級生の娘さんがいたがあの人だったのだろうか。同じ苗字の親戚筋のひとたちに「お夜食」(という通夜のときに持ってくるもの)やご香典をいただいたが、時が流れどういう親戚筋か俄かには判らないお名前の人もいた。

家村さんのご兄弟
 母の一番下の弟、叔父の嫁、悦子さんの実家。義叔母はひとり娘で四人の弟がいた。「義兄は来られないようだ」と二人の弟さんがお見えになった。「高江」という私の故郷では最もお米の採れる集落がお里だ。その替わり洪水にも見舞われるところだが。

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