2009年8月29日土曜日

さらば故郷

 桜島には雲がかかる。
 来た時には母がいた。帰るときには母はもういない。

 お盆の時期をよく持ちこたえてくれた。おかげで皆、難なく遠くから駆けつけることができた。

 しかしながら、関東に住む母の弟妹たちは歳をとり駆けつけることはできなかった。叔父二人は寂々たる思いの電報をよこす。近い親戚は故郷には叔母ひとりと従兄弟ひとりしかいない。

 30度を越える青空の日が続く、喪失感。1945年のあの夏の青空もこうだったのだろうか。

 慌しかった。

 深夜に亡くなったのでその日は徹夜と緊張で疲れ果てる。我々兄弟四人それぞれ遠く異郷に住む。老齢になって、それぞれの人生経験、価値観を持つ。葬儀も経験しそれぞれが違う体験、やり方を持つ。それでまた“船頭”が多くなる。かしましい。当地には当地のしきたり、相場がある。初めて知ることも多かった。同じ仏教でも宗派が違えば作法も違う。

 “お寺”と恃むご近所のお坊様(お導師様)に来てもらう。母はこの日のために葬儀社の互助会に入っていた。その大きな斎場で、仮通夜、通夜、葬儀を執り行う。そして略式の「初七日、四十九日」の法要、母の部屋の明け渡し、清算、役所、銀行めぐり。喪主である兄は取り仕切る立場にあったが、人を指図するより自分でやってしまう性格だ。手分けしてやるにしても、ほとんどを兄(の家族)がやってしまいへとへとになってしまったはずだ。まして病み上がりである。気が張っているが、後が心配だ。

 それぞれの家族と別れ、滞在最後の日は霧島の山中の温泉に宿をとり、のんびりした。母がもう一度休みをくれたと考えることにした。ナビで辿って故郷からわずか2時間で着いた。初めて宮崎のえびの高原(県境をこしたところ)にも足をのばす。

 朝8時を過ぎて大きな露天風呂に人はほとんどいない。
 号泣しても構わない。泣いてもわからない。
 朝食前で、何を長く入っていたのと妻殿から言われる。
 うん、僕は実の母を亡くしたのと言って、「あっ」と言ってわかってもらう。

 関西に住む兄は長男として墓を守るためにかねてより墓をそちらに移していた。実家もなく墓もなければ、故郷に帰るきっかけや理由が希薄になる。

 父の時(40数年前)は、初七日を過ぎるまでは一切の肉魚を絶ち精進したが、今はそういうことはないらしい。葬儀まで終えた夜、精進落としに、水入らずで、ささやかな宴を張る。子、孫、曾孫、叔母、従兄弟で23名。義兄が「千の風になって」を歌いたいというので、カラオケルームのお店を訊いて、姉夫婦と我が家族で行く。三男の「少年時代」を手始めに、皆が歌い発散し、最後に義兄が「千の風になって」を歌う。「お義母さんに聞かせてあげたかったな」義兄は声量があって美声だ。きっと母は聞き惚れたに違いない。

 施設の介護士のみなさんそれぞれがかけてくださった惜別の言葉を噛みしめると、感極まる。

 「少年時代」、息子はわかって歌ってくれたのだろうか。

 来る時には母がいた。帰途の機中で母がいない寂寞を思う。

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