2009年8月10日月曜日

いつ、なんどき


 高熱が出て点滴を始めた。呼吸困難の事態に備えて酸素吸入も用意したと特養ホームから兄に連絡が入る。いよいよという段階かとも思うが、判断がつかない。火曜日の夜のことだった。朝もう一度、様子を訊くからいざというときは先に行ってほしいと。

 いざ、荷造りというと案外手間取る。なにと何を持っていけば、どこまで持っていけばと戸惑う。喪服は目立つところに置いていたが、先回確認したときは慶事のネクタイを入れたままだった。スクランブル発進できる荷物を常備しておくことにする。

 故郷に身内は一人きり、87を過ぎた叔母がいる。兄が夜、連絡をとって母のところに駆けつけてもらった。朝になって意識はもどり小康状態だという。しかし、こういうことは繰り返され、いずれ重篤な状態になっていくだろうと考えられる。

 こういうことが来るとわかっていたのに、気持ちだけあって実際にはなんの準備もしていなかった。JALには「介護割引」という料金があった、片道2万円も違う。いざとなればそんなことも言ってはいられないが、泥縄で一応手続きを考える。介護証明関係の在り処を兄に尋ねる。おぼつかない。戸籍謄本を取り寄せる。オリジナリティを保ちたいがために本籍は故郷に残しておいた、こういうことがあって家族に不便を言われる。また、いつも手元に現金があるものではない。郵便局しか使えない、民営化されて手数料などがあがった、庶民にとっていいことは何もない。宿はインターネットで探るが、故郷には原発があってメンテナンスの時期など、ときに宿がとれぬことがある。

 父の事故の時には兄も姉も東京から身ひとつで帰ってきた。急行か特急を乗り継いで2日がかりでたどり着いた。「父が危篤で」と切符を買ったらしい。帰り着くところには、母も上の姉も私もいる家族があった。親戚も大勢いた(存命していて元気だったと言うべきか)。何よりも皆が若かった。

 浅い眠りしかとれなかった。反動で翌日は深く寝た。

 当面の約束や注文をキャンセルする。職場のみなさんにも一応断っておく。

 昨日は平熱にもどり意識はあるらしいが酸素マスクをつけた母の画像が届く。もう覚悟している。いつ、なんどきが続く。つらい“待機”。

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