昨日8月6日の原爆忌は万感の思いで黙とうを捧げた。
「万感の思い」とは何かというと言い表せない。「万感」なのでたくさんあると思うが、ひとつは悔しさだろう。被爆者は原子爆弾・核兵器によって無残な殺され方をし、生き残っても苦しみと恐怖と「自責」と差別を受けた、そういう二重の残酷さへの悔しさの思い。そして、とうとう「フクシマ」原発の人災が惹き起こされた。原発によって撒き散らかされた放射性物質について、日を追うごとに「『被害者』が被害者を追い詰めている理不尽さ」が募っていると考える。
今朝の新聞をみて、つれあいは涙を流した。
津波被害にあった陸前高田の「高田松原の松」でつくった復興への思いをつづった薪を京都大文字焼で燃やそうとしていた計画を、放射能は大丈夫かと琵琶湖の水が汚染されるとの不安の声で、中止になったと報じられていた。初期の「ほうれん草誤出荷」事件以来、ずっと喉のあたりにひっかかっていることにも通底する。
どこに線引きがされてどうであれば安心かということもさることながら、放射能汚染は3月のメルトダウンが起きた時点で既に本質的に深刻な事態である。ほぼみな被害者になった。消費者が食品に残留放射能を避けたいそのことに異論はないし、市民が環境に放射性物質を避けたいそう主張することにもそれはそうだと思う。内部被ばくなど新たに「被害者」にはなりたくない、そう考えるのは自然なことだし、その「被害者」をつくらないことは重要なことだ。
だけれども、農業者や漁業者、被災地の住民が第一義的に被害者そのものではないのか。被災地で農作物や畜産物をつくった、ようやく沿岸で漁獲したものを流通させた。或いは被災地のものを流通させた。放射性物質の検出によって、あるいは検出の如何にかかわらず、それが何故、まるで「加害者」であるかのごとき扱いになっていくのか。「過失」を犯したかのようになっていくのか。もちろん、加害者であるとか過失であるとか誰も言ってはいない。買って食べるだけの「消費者」や、原発からたまたま遠いところに居住しているだけの住民の心無き仕打ち、無情さ。制御できない放射能が人を引き裂いている残酷さ。
「万感の思い」とはそういうことに直面することになった現実への漠たる悔しさなのかもしれない。そう思えばこそ、コトの本質、「脱原発」は正当な主張だと考える。その「脱原発」をブログで言った若いタレントさんが翌日には「謝罪」をして撤回をしたらしい。原発への主張は「やらせ」どころか強制があるらしい。戦争反対を言えば激しい弾圧を加えられ、破滅への道を歩んだことと同じことが未だに横行している。ぶんぶん、ブンブン。
2011年8月7日日曜日
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2 件のコメント:
こんばんは♪
私もその記事を読み、胸が痛みました。
そんなことが毎日のようにありますが。
千葉の早場米の放射性セシウムの検査がおこなわれるとか。その結果を消費者よりも生産者の方々が(多分)固唾を呑んで待っています。
決して、生産者さんは加害者ではない。
本当に胸が痛むことばかりです。
ぶんぶん!ブンブン!
もやもやとしていて、微力だし、立場は消費者には違いないし。うまく言えないのですけれども、同じ思いの人がいてくださってよかった。いや、信じていました。鎌仲ひとみさん自身が述べていますが、あちこちで上映運動が進んでいます。松元ヒロさんも同じ思いで暖かい「笑い」をひろめています。
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