2012年2月8日水曜日

いざ、かまくら


つい考え込んでしまう。いろんなことが遅くなる。

鎌倉街道の上道(かみつみち)と言えば当時の国道だと池原昭治先生はおっしゃる。
鎌倉から放射状にのびた「いざ、鎌倉へ」の軍事道路だ。
「当時の国道」とはいえ、馬一匹通るのがせいいっぱいのところもあった、そういう交通事情だ。この辺り一面、平地は野っ原と丘陵地は雑木林であっただろうと当時の景観を想像できる。そこに鎌倉街道が走り、ときには数万の軍勢による合戦も繰り広げられた。北西部の広大な武蔵野だ。水の便が悪く、江戸時代も後期に入ってようやく新田開発ないし開拓が始まる。それでも緑豊かな奥武蔵野だったはずだ。

私の住まいは1960年代以降に有名な大手のデベロッパーによって開発された住宅地だ。里山であった貴重な雑木林をつぶして住宅団地が造成された。いわゆるトトロの森がつぶされていっている実態は今も変わらない。まわりから林がどんどん無くなっている。ここは老舗の住宅団地である。バブル期などは億円で取引された例もある。私は右も左もわからずそのバブルの真っ最中に九州から引っ越してきた。もう四半世紀になる。御多聞に洩れず地域のことはほとんど知らないというかほぼ無関心できた。最初にこの団地に入居された人たちは、もとはと言えば文京区に住んでいましたとか、東京の23区内に住まいされていた人たちが多い。そういう江戸っ子が多い。その最初の先輩たちはとっくにリタイアされて70代になっている。高齢者で二人暮らしあるいは独り暮らしの人々が多い。

訊けば協力者の齊藤さんも、その世界では名の通ったお江戸の職人の娘であったらしい。頼まれたことは納得するまで聞く、聞いた以上は本人以上に親身になって引き受けてくださる。亡くなったご主人は新潟出身でサイトウさんというらしい。ある人から別のサイトウさんのことで、サイの時はいろいろあるから失礼のないようにと忠告を受けた。別の人は齋藤さんだった。それで目の前の「さいとう」さんに訊ねてみた。そうなのよね、うちは二本線の「齊藤」なのよ、いいわよ気にしないで。とても書けないので「斉藤さん」で勘弁してもらっている。

案外味噌づくりをしている人たちは多かった。とてもいいことなんだけれども、味噌づくりをして支援してくれという立場からはこれが障害になった。それでも、被災地を支援したいその一点でみななんとか協力したいと申し出てくださった。多くは年金生活だ、人によっては経済的にはギリギリの生活をしている。そんな人に限って、支援をしたいとおっしゃる。斉藤さんと相談して予想していたことだった。4,000円は大変な負担だったが、そこは一組という形で組んでもらうことにした。二人で組めばひとり2,000円になる。4人で組めばひとり1,000円になる。日程の都合もあった。その日は出られないけど是非支援したい、でも2,000円でと。そこから先は齊藤さんがすごい。もう味噌はいらないけれど味噌づくりの応援はできる、生活がカツカツで労力は出せるという「応援者」を募った。それを組み合わせた。それが人数的にはぴったしになった。

なんて私たちは「上から目線」でいたんだろうと「目から鱗」だった。自分の生活さえままならない人こそ人の困難が見える、だから協力を申し入れる。それに高いハードルをつけてしまった。良い材料を使うのだからコストは仕方ない、そのお金を出せなければ参加できないのはしょうがない、そう考えていた。経済的に余裕のある人たちに4,000円というのは大して抵抗はない。それも事実だ。だけれども人の善意にお金の格差をつけてしまって気付かないでいたこちらの不明。これを恥じる。良い材料を使いたい、このことに物怖じはしない。だけれども、進め方に粗雑さがあった。しかし、実地にやって丁寧にやることによってそれを学習した、ひとの本当のやさしさを学んだ。私らのやることはママゴトではない。公民館の調理室が満杯になってわいわいがやがやになるそのことが想像できた。きっとすごいことになる。

支援するのよ、楽しくやれるわよ、斉藤さんはまだ連絡のよくとれていない人と連絡をとってみると膝の悪いところをかばいながら我が家を去って行った。

サイトウさんにもイトウさんにもみんなにお世話になっている。サはない。「までい」にやる。あきらめない。

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