秀雄さんは、岩手県南部の内陸部の町にて父茂七(23歳)、母たまき(21歳)の長男として大正8(1919)年9月28日に生れました。父親の茂七さんはその後も子宝に恵まれ、秀雄さんにはたくさんの弟妹たちがいました。また、茂七さんは勤勉で且つ商才もあったらしく、金物商として行商から身を起こし港町気仙沼にお店を構えます。それは昭和12(1937)年2月のことであったと考えられます。ちなみに、昭和三陸津波が起きたのはその4年前の昭和8(1933)年3月のことでした。
秀雄さんは長男であったために跡継ぎとして処遇されます。晩年、秀雄さん自身が語っていました。高等小学校を出て塩釜で5年間修業のために働いたこと(15~20歳)。そして徴兵検査の歳になり甲種合格、昭和14(1939年)年12月に入隊(20歳)します。泥沼化した日中戦争の最中でした。金沢で即席の初年兵教育を受け「北支」(中国戦線)に1年半、さらに「南方」と呼ぶ今のベトナムに派遣(「佛印進駐」)され、結局、太平洋戦争を経て終戦までそこにいました。6年半ずっと軍隊にいて、兵隊のままで終わったらしいのですが、その戦友も床屋さんの小野寺さんと二人だけになったと寂しそうでした(2009年聞き取り)。昭和13(1938)年に実母が亡くなりましたが、ほぼ13年間、事実上、実家に帰ることはなかったといいます。
商家の長男で丁稚奉公、大正生れで兵士としての長い戦争体験。戦前は歴史に翻弄された半生でした。おもしろおかしく陽子さんが脚色するところによれば、いつでもどこでも「快食快眠快ウン」。そして粘り強さと持ち前の数値に明るい能力で生き残ることができたと考えられました。戦闘中、九死に一生を得たこともいくつかあり、徹底して叩き込まれたのでしょうか聞けば「軍隊用語」がいくらでもでてきました。死人の臭いはすごかったこと、馬を曳いていたらロッキード(P-38?)が襲ってきてさっと散ったら、馬がやられたことなどむごい体験をしたようです。中隊の三分の二がビルマ作戦に行って生き残っていない、きっとあの悪名高い「インパール作戦」だったと考えられますが、運良くその部隊には配属されなかったようです。
秀雄さんは長男であったために跡継ぎとして処遇されます。晩年、秀雄さん自身が語っていました。高等小学校を出て塩釜で5年間修業のために働いたこと(15~20歳)。そして徴兵検査の歳になり甲種合格、昭和14(1939年)年12月に入隊(20歳)します。泥沼化した日中戦争の最中でした。金沢で即席の初年兵教育を受け「北支」(中国戦線)に1年半、さらに「南方」と呼ぶ今のベトナムに派遣(「佛印進駐」)され、結局、太平洋戦争を経て終戦までそこにいました。6年半ずっと軍隊にいて、兵隊のままで終わったらしいのですが、その戦友も床屋さんの小野寺さんと二人だけになったと寂しそうでした(2009年聞き取り)。昭和13(1938)年に実母が亡くなりましたが、ほぼ13年間、事実上、実家に帰ることはなかったといいます。
商家の長男で丁稚奉公、大正生れで兵士としての長い戦争体験。戦前は歴史に翻弄された半生でした。おもしろおかしく陽子さんが脚色するところによれば、いつでもどこでも「快食快眠快ウン」。そして粘り強さと持ち前の数値に明るい能力で生き残ることができたと考えられました。戦闘中、九死に一生を得たこともいくつかあり、徹底して叩き込まれたのでしょうか聞けば「軍隊用語」がいくらでもでてきました。死人の臭いはすごかったこと、馬を曳いていたらロッキード(P-38?)が襲ってきてさっと散ったら、馬がやられたことなどむごい体験をしたようです。中隊の三分の二がビルマ作戦に行って生き残っていない、きっとあの悪名高い「インパール作戦」だったと考えられますが、運良くその部隊には配属されなかったようです。
陽子さんは、その年の暮れに昭和になった大正15年(1926)の5月15日生れでした。父の名は等、母はテルコ、岩手県南部の村の農家に3人姉妹の真ん中として生れ育ちます。父親が肺病で伏し早くに亡くなったため、男手のない女だけの農家で苦労したそうです。5月のよい陽気に生れたせいでしょうか、その名のとおり快活な女性でした。身長が165cmほどあって、当時としては「大柄な女」でした。「このひと若いときいじめられたの、からだが大きいから」と陽子さんのことをさして、背格好も顔も少しも似ていない妹である芳子叔母さんが言っていました。あの時代、背が高いことは肩身が狭くいやだったようです。このたび、遺品を整理していて見つけた昔の先生からの便りに「あなたは金子みすずのような詩人になれると思っていた」と記してありました。陽子さんは文学少女であったことが窺えました。きっと夢見る少女のはずだったのですが・・・、夢多きはずの乙女時代は戦争一色の世の中でした。軍事教練で教官にどれほどいじめられていたかということをよく恨んでいました。ですから実感からも陽子さんは「戦争が嫌い」でした。
復員してきた秀雄さんは父親の茂七さんのもとで、お店で一緒に身を粉にして働きます。戦後復興のなかの金物商という商いの内容と立地の良さでお店は繁盛していきます。広く唐桑や大島にも得意先があったといいます。内陸部の農家育ちの陽子さんも「街へ」出て行きたかったのではないでしょうか。気仙沼の町の、商家の大家族のもとへ嫁いできたのは陽子さんが21歳のときでした。お見合い結婚で昭和22年(1947)のことでした。秀雄さんは28歳。秀雄さんは背が低く感情の起伏の少ない性格で実直な人柄、陽子さんは大柄で社交的な性格でした。知らない人から、あまりにおとなしい秀雄さんは「お婿さんか」とよく間違われたそうです。蚤の夫婦そのままで外を一緒に歩くとき陽子さんは気を使ったそうですが秀雄さんは無頓着だったそうです。そして一男二女に恵まれます。子供たちにはキリスト教に帰依した祖父の茂七さんが聖書からとって名付けたそうです。やがて、二代目として父親からお店を任され、歳の離れた弟妹の面倒もみながら我が子達を育てあげました。
そうして幾星霜、9人の孫たち、さらには3人のひ孫たちにも恵まれました。長男夫婦・孫夫婦とともに四世代が同居同様に住まいし、健やかで幸せな晩年をおくろうとしておりました。秀雄さんはオルガン弾きや菜園いじりを、陽子さんはご近所のご隠居「三羽烏」とのサロンを日々楽しんでおりました。家は商いをしていましたので職住が同じで、いつも一緒の仲睦まじいおしどり夫婦でした。そうではありましたが、このたびの不慮の大津波に遭遇し、あっという間に旅立ってしまいましたのも、ふたり仲良く一緒でありました。
0 件のコメント:
コメントを投稿