気仙沼だけの慣習なのか知らない。この地ではまず火葬に付してから葬儀に及ぶ。だから故人をひと目見てお別れをしようと思えば、まずは火葬場に急行しなければならない。そのせいか、山の中腹には広い駐車場らしきところがあった。父母の火葬の当日、そこではやむなくあとから遺体が発見された人たちの土葬が始まっていた。どこか外国のメディアがその様子を撮影していた。
火葬場は鹿折を奥に行った山の上にあった。市内からはバイパストンネルを通って鹿折には入れた。カメラに収めても、その惨状は表現できない。さほど大きくもない鹿折川に小型の漁船が打ち上げられ、車がひっくり返っていたり沈んでいたりする。両岸はえぐられたようになっていて、木材などのガレキが続く。
陽子さんの背中におんぶされ育った孫のセイコちゃんは、朝3時に起きて娘のトモカちゃんをつれて車で駆けつけた。自分も名取市で被災した。ひと目会いたいとその足で遺体が安置してある白山小学校まで足をのばして対面してきた。白山小学校は上鹿折(かみししおり)という陸前高田の方にいったところにある。何の因果か、父母はここに隠居の家を持っていて週末を過ごしていた。セイコちゃんは父母の初孫で、うちの長男よりもひとつ年上。13年前に亡くなった姉の子だ。両親はポートで食堂を営み朝から晩まで働いていたので、ほとんどばあちゃんにあずけっぱなしだったのを覚えている。セイコの弟のユウジからもつれあいの携帯に連絡が来ていた。明日の火葬には行きたいけど行けないからと。東京あたりに住んでいるらしい。ユウジはうちの長女と同じ年だ。
父母は洗礼を受けてはいなかったが、祖父の茂七さん祖母のなおさん、弟妹たちがクリスチャンだったこともあって牧師さんの立会いによる「火葬の式」が慌しく執り行われた。賛美歌を唄う。最後のお別れをし、二人仲良く火葬に付された。約2時間半の後、骨をひろう。義父は小柄な人だったがりっぱな骨格であったことがわかる。ただちに、納骨のためお墓に向かう。お墓は実家の近くの、海の見える高台にあった。つれあいが通った坂の上の小学校の前にあった。祖父以来の納骨になり、墓石の下の納骨堂を掘り返し苦労して収める。とてもシンプルで素敵な墓石だ。これを揮毫したのは従兄の牧人さん。「志津川のおんちゃん」の三男で家族とともに未だに行方不明だ。達筆であったという。たまたま、昨年の夏、予告なしに叔父の家を訪ねていき再会したばかりだった。
一番年長だからと母方の義理の叔父があいさつする。落ち着いたらいつか必ず「偲ぶ会」をやろうと。
ふるさとの墓地に父母は眠ることとなった。父の父母、夭逝した弟妹たちと一緒に。海の見える市街地の中の閑静な丘の上に。
もう夕暮れが迫っていた。駆けつけた親戚たちと別れを告げる。
2011年4月10日日曜日
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