とにかく何とか一番早く確実に被災地に行く方法はないかと息子に検索してもらって、花巻まで行く深夜バスがあることを知り、それがあと3席ということで押さえたのは20日のことだった。出発の前日、岩手県摺沢の叔母さんから電話があって花巻まで行かずとも水沢で降りればいいということと、大船渡線が気仙沼まで開通するという情報を得た。
池袋駅西口7番バス停。着いたときにはまだ誰も並んでいなかった。集まってくる客に私たちのような重装備の人はいない。一緒に行く長男と合流。イーハトーブ号22時40分発。バス停の案内を見て、気付いた。このバス停からは通常ならば、気仙沼経由釜石行きの深夜バスがあることを。そういえば、義父母は朝早く我が家に来て、夜に帰ることがあった。深夜便のバスを使っていたんだということを、そして発着場がここであったことを、初めて知った。なにも歳なのだから、新幹線でくればいいといつも説教していたのだけれども。二人とも持病は一切なく、車に酔うこともなく、またどこでも眠れたようだった。
3列のバスは初めてで、厚いカーテンがあって眠れるように座席がぐっと傾く。狭いようだがトイレもあって、運転手が交代する以外は目的地まで途中止まることはない。その交代要員の運転手の寝所は下の荷物置き場の横にあった。閉めてしまえばどこにあるかわからない。
水沢駅前に着いたのは早朝5時20分。到着してみれば、バスは3台だった、増便したのだろう。それを考えれば、もっと早く行く日にも増便していたのかもしれない。初めて降り立つ駅だが、なにかの因縁だろうか、関東大震災後の復興に東京市長として腕をふるった後藤新平の故郷であるらしかった。上りの一関行きは6時半発だ。窓口で気仙沼行きの切符を買う。窓口では一関駅に電話をしてくれて本日開通することを確かめてもらった。途中、濃霧で列車が遅れたが、一関に着けば向かいの乗り場が気仙沼行きだ。7時19分発。食べ物も飲み物も持ってはいるが、買えるところで買っておこうと息子にお弁当を買いに行ってもらう。列車は2両編成で復活第1号だとは思うが、さほど乗ってはいない、また、被災地支援で行くのではないかと思しき人たちもさほどいない。私たちは、バックパックにリュック、登山靴、に寝袋という「いかにも」といういでたちである。
出発してまもなく息子が、カメラが見当たらないことに気付く。弁当を買いにいったときに慌てて落っことしたと考えられた。女の車掌さんが乗っていて届け出る。間もなくして、駅でみつかったという知らせをいただく。確か宮沢賢治が勤務した鉱山の工場がある駅だと思うが、ここで降りて、引き返す。ちょうど、上りと下りが行き合うところで待たずに引き返せた。あとで合流することにする。
水沢に着いてからずっと車中から除く風景は穏やかで、本当にあんな惨状があったのだろうかと不思議に感じた。気仙沼に近づくにつれ列車は地形を下っていく。並行して走る道路に自衛隊の車列を見つける。さてどうなっているのだろうと、いよいよ臨場感を抱き始める。近づくにつれ、徐行をしながら走っていた列車は10分ほど遅れて気仙沼駅に無事到着する。被災地は「壊滅」と聞いていたから、何日も前に仙台の叔父とつれあいが連絡をとったときに、「ホテルに泊まれば」とか、「タクシーで移動すればいい」とか、言っていたので何をとぼけたことをと思ったのだが、現実には駅前には何台もタクシーが止まっていて、駅前のビジネスホテルも営業している様子だった。 到着の最初の印象は拍子抜けだった。
2011年4月7日木曜日
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