2011年4月8日金曜日

気仙沼記

 毎日余震だもの、来たらびっくりしますよと、予め義姉から聞いていた。事実そうだった。そして会った人たちもみな一様に言っていた。無い日は「地震さん、今日は来ないんですか」とも冗談で思うほどだったそうだ。

 それが、昨夜(23:32から)の強烈な余震だ。生きた心地はしなかっただろう。復旧しつつあったものが振り出しに戻っていなければよいが…。

 駅に降り立った限り、一関からつながる284号線を緊急車両や支援車両が通る光景を除けば、ただののんびりとした地方の駅前風景だ。ちょうど郵便局があって、入ろうとするが扉が開かない。時間の感覚がなくなっていた。まだ、9時前だった。慌てて出て来たので、持ってきた見舞金をATMで入金する。避難所住まいで大金は受け取れる状態にないと判断した。当座の金は渡せる(それも無用心だから要らないと言われた)。

 駅から歩いて10分ほどで祖母のなおさんの家に辿り着く。独り暮らしで地震が起きてから妹さんの家に避難していたと聞いている。事前に「米も味噌もある、電気も来た、水も出る、安心して来い」とは聞いていて、荷物から2Lの水や缶詰は置いてきた。そうは言っても心配かけまい、やせ我慢ではないかと思い、自分らの食べる分ぐらいと寝袋は持ってきたが、取り越し苦労だった。なおさん自身が準備した食べ物と、我々の分、あとから到着した仙台の叔父夫婦との食糧などと併せて、とくにパンなどは溢れかえった。布団は誰かから借りてくれたらしく、ちょうど人数分あった。4畳半二間に我々5人が逗留させてもらうことになる。なおさんは87歳、祖父の後添えで子はできなかった。叔父も私のつれあいも血はつながっていないが、親子・孫同然だ。なおさんは竹を割ったような性格でお料理が上手だ。孫の私たちには優しいが、叔母の美重子さんには「これ、嫁」と手厳しい。美重子さんもよくつくす。

 連絡があり所用があるということで兄の家族とは夕方近くまで会えないことになった。ようやく駆けつけたというのにと怪訝に思ったが仕方ない。姪夫婦も勤務があって会えない。とにもかくにも歩いて街に行くことにした。1月に来たばかりだったが、ここ古町から歩いたことはない。遠いからと、駅からは車でいつも迎えに来てもらっていた距離だ。気仙沼の市街地は、駅から一本道だ。旧45号線に沿って旧市街地は長く続く。1月に来たとき果てしなきシャッター通りと感じたところだ。狭隘な平坦地に沿って海(港湾)に続く。この道は市街のあちこちで突き当たりになって鍵状に曲がる。このたびはなんども往復して海に向かって緩やかに坂道になっていることを実感した。そして海に向かって右手にはところどころに高台があることも。リアス式海岸に沿う大きな港町のこの複雑な地形が、高田や志津川のような平坦な地形で全滅に近い光景とは一線を画した。「壊滅」したのはこの高台の向こう側の新市街、昔は何も無かったというところに開発された平坦で広い区画だ。ここには全国どこにでもあるような大きな量販店が軒を並べて街の賑わいはこちらに移っていた。海岸に近いところには水産の設備や加工場が数多くある。「壊滅」のもうひとつの地域は鹿折地区、旧市街の魚町の向こうだ。湾の奥に沿って平坦地が続く。いずれも川があって津波はこれを怒涛となって遡った。そして津波を被ったのは旧市街だ。「大正屋号通り」と銘打って観光開発しようとしていた。つれあいの実家もこの中にあった。地元の老舗は港近くのこの伝統ある一等地にお店や事務所を構えていた。そして繁華街・飲食街もここにあった。漁船が寄航し船員が馴染みの銭湯、日用品を供給するお店、そして旧赤線も魚町の奥にあった。静かな湾とはいえ海は目と鼻の先だ。しかし、志津川のように走って逃げても間に合わないような地形と違って高台は遠からずあった。

 原発の深刻で日々憂慮すべき事態の進展とは違って、地震と津波の被災地は日々復旧しつつある。あれほど言われていたガソリン事情は訪問する直前に好転した(我々の住む居住地とほぼ同じだ)。もうガソリンスタンドに並んではいない。何もないだろうと想像してきた商店やスーパーにはモノは揃っていた。米もパンも納豆もペットの水もトイレットペーパーもガスボンベすらもあった。日々変わっていく。やはり無いのは乾電池ぐらいのものだった。

 私たちが到着したのは四月一日だ。この日をひとつの目処に復旧に努力したあとがうかがえる。鉄道がそうだ、新聞がそうだ、電気・水がそうだ、そして個人の蕎麦屋さんもそうだ。営業を再開した。一関発気仙沼行きの一番列車に乗った。『三陸新報』これは気仙沼だけの地元紙だ。すべてが流された。それでもコピーB4版裏表で発行を続けた。同業者の支援を得て、ペラ1枚だが新聞の体裁を整えて発行を再開した。いま、地元で知りたいことが書いてある。『河北新報』は宮城県の地方紙だ、被災者を励まし続けてきた。電気が51%、水が44%復旧したらしい。古町のなおさんの家は早くにこの恩恵にあずかった。ただ、東北沿岸の自治体の下水道処理施設はほぼ一様に海岸沿いにあって壊滅した模様だ。これが深刻だ。現在、いや長いこと垂れ流しの状態にあると考えられる。3日には行政から各個配布があって、排水を控えること、トイレの紙は燃やせるゴミで出すようにとの協力要請の内容になっていた。海岸に近いところの町中のマンホールがあふれ出す危険性にも触れていた。

 気仙沼に向かう車両の中で思った。穏かな日和であることを、まるでウソのようだと。どこかに、「日常」と「非日常」の境目があるはずだと。やがて、この一帯の目印の山である室根山が見えてきて、線路は緩やかに下っていくのがわかる。道路には災害派遣の自衛隊の車列が見えてすれ違う。室根山はあの様子をきっと見ていたに違いない。海の怒りのような津波を。「火の海」を。  


 ガソリンが手に入ったとたん街は車で溢れかえった。旧市街は一本道だからながく長く渋滞する。私たちのように歩いたほうが早い。大分・別府の自衛隊車両、大阪ガスの工事車両、どこそこの工事車両や緊急車両が駆けつけて来ているのがわかり、すこし胸が熱くなる。コープみやぎの車両も健在で街中を行き交っている。

 学生時代「ここのピーナッツせんべいが名物なの」と自慢して、彼女がお土産に買って来てくれた「小山大(おやまだい/屋号)」のお菓子屋さんが営業を始めていた。ここら辺まで水は来ていた。ピーナッツせんべいは工場がだめで再開できていないらしい、そのかわりどら焼が出来上がっていた。飛ぶように売れている。私もなおさんのところと、これから訪ねる被災者の友達へのお見舞いに菓子折りで買い求める。

 気仙沼はよくとりあげられその惨状が映像に流されるが、北の「陸前高田」と南の「旧本吉町(現在、気仙沼市)」、「南三陸町(志津川)」の「あたり一面壊滅」とは、違う様相だろうと考えられた。どこかに天国と地獄の境目があるはずだ、どうもここら辺であるらしい。あれから3週間を過ぎている。畳が積み重ねてあった(翌日には無くなっていた)。帰り道で聞いたことだが、市役所近くの駐車場の空き地には姪っ子が乗り捨てて命拾いした車が積み重ねてあった。さらに進めばがらりと劇的に光景が変わっていく。「もん」のお店はこちらだとメイン通りを曲がってその商店街に入っていく。建物はほぼ残っている。だが、中は壊滅だ。ガレキは山となって歩道に積み上げてられてある。歩くことができる。乾いたヘドロ。天気がよくって粉塵がすごい。ドブ臭がする。ふた昔前の、東南アジアのどこかの田舎町に迷い込んだような光景を想像する。彼女は避難所にはおらず、お店にいるというのでそのお店の脇から入って訪ねていく。隣との境の高いブロック塀が歪んで残っていて今にも崩れ落ちてきそうだ。息子さんがいてお店のなかを片付けている。大きな声で呼んでようやく「もん」と再開する。初めましてと挨拶される。そうか、私は禿げ頭になったし昔の面影はない。「もん」もそうだ、ショートカットにしていっぺんに老けて見える。いや、このたびのストレスがそうしたのだろうとあとから思った。「涙の再会」を予想していたが、そんなことはなかった。会う人会う人みんなそうだった。みな気が張っていて、気丈もしくはあっけらかんとしていた(ように見えた)。もちろん、話し込むうちにお互いの不幸と困難に涙ぐんだのだが。当事者にしてみれば泣いている場合ではなかった。

 犬を抱いて3階にあがって干し場から逃げたの。あのとき道路に出ていたら助からなかったという。そして、水が引いてすぐ上にあるお寺の避難所に逃げたという。寒かった。暗くなった。煙があがった。愛犬とははぐれ避難所の下で、一晩中鳴き声が聞こえたという。犬とはつきあったことがないが、思いっきり撫でてやる、そのときは大人しくなるが離れようとすると吠えられる。躾ができなかったようで他人にはよく吠える。ポポという名らしい。別れにお見舞い金とどら焼の菓子折りを渡す。「甘いもの食べたかったのぅ」と心から喜ばれる。

 つれあいが「こっちの方向」と指す方向に実家をめざす、すぐそこだ。時計屋さんの時計塔が2時50分あたりを指して止まっている。地震で何故ああいう風に止まるのだろうといつも不思議に思っているのだが、その現物を目の当たりにした。  


 車が建物の中に突き刺さっている、ひっくり返っている、船が陸にあがっている、重油タンクが湾に浮かんでいる、どれもこれもそのうちに不思議に思わなくなってしまう。それでも、つれあいは区画、区画ごとに変わり果てた故郷の姿に息を呑み、その光景に嘆き悲しむ。

 『男山』は地元の清酒だ。この銘柄は各地にあるように思うが、少し山手の工場と蔵は残った。ポートに面するりっぱな石造りの事務所は崩落した二階部分だけが残った。6日のニュースによれば元気を取り戻そうと充填を再開したらしい。港側に面した「白馬」という大きな鉄筋3階建てのスナックと、他の家の頑丈そうな石造りの土蔵が残った(土蔵は街中でも比較的残っていた)。港側にあるこれらの建物に守られたのかしらないが、実家の区画は建物だけは残り、二階まで水をかぶり内部が破壊された。実家の3軒向こう以降の区画は流されたようで跡形もない。また、お向かいも二階部分だけが落ちて残っているだけである。要するにぺしゃんこ。「水を被った」と表現するけれどもこの「水」はただものではなかった、ヘドロだ。実家では建物が流されなかった分だけ、上の階には遺り物があってそれを掻き分けて貴重品などを探している。今は会えないはずの義姉と姪と甥っ子にたまたま遭遇する。中を見せてもらう。少し表の光が入って見ることができる。これから、義兄の友人宅にお風呂をもらいに行くところらしい。

 メイン道路に沿って古町へとまた長い道のりを辿って行く。

 結局、夕方になって義兄とはなおさんの家の玄関先で会っただけで、明日こちらから避難所に行くことになった。なおさんが美味しい味噌汁をつくってくれて、ありあわせのもので夕食にした。なおさんも叔母もクリスチャンで食べる前のお祈りをした。

 なおさんの家では風と余震と何かの振動で、身体が揺れるのを幾度も感じた。

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