私の故郷は九州の南です。この時期すごい北西の風が吹きます。これがやむころ南国の春になります。その故郷を離れてから、私の生まれ故郷には火力発電所、原子力発電所、自衛隊、新幹線が誘致されました。両発電所は松林と砂浜の風光明媚なところをまるまるつぶし鉄条網を張り巡らしました。そういう“生き方”をふるさとの行政は選びました。当時、原子力発電所誘致に反対するような者はごく少数の異端および共産党でした。まだ、少年でしたがその光景をよく覚えています。
震災の当日に知人からご心配のメールをいただき、突然の切迫した私どもの事態(父母が逃げ遅れたらしい)をみんなに返信し、またその結末を再び送りました。結果的に同情を強要したような形になり後悔しています(励ましの返信をいただきながら申し訳ありません)。
私のつれあいの父母、親戚の被災は、このたびの数ある中の悲劇のひとつです(「すぎない」とは言いたくありません)。まして「天罰」であろうはずがありません。あまりにも規模が大きく且つ広域で、ひとつひとつの災難が「ありふれて」きて、悲劇がひとつひとつであることがかすんでしまうことを恐れています。そういう意味で私たちのこともお知らせし、知人のみなさんからのことも進んで知りたいと考えました。
気仙沼、志津川(南三陸町)、陸前高田は注目されているだけまだ「まし」で、しかも父母・叔父の遺体は早くに発見されその知らせが届きました。東北以外の茨城や千葉も被害が甚大であるにもかかわらずほとんど報道されていません。当初、いかにも「絵」になる報道の傾向がみられ、当事者および関係者に必要な情報(例えば生存している被災者の姿、および被災者どうしの所在や消息)が伝えられませんでした。徐々に改善されつつあります。
イマージンというのでしょうか。「思い及ぶこと」今、まさにこれが必要です。
この突然の災難に両親がたとえ生きながらえたとしていても、故郷の地獄のような惨状をみなければいけなかったと思います。それを見ずに済んだのだとも、つれあいは考えています。
家族や一族の絆を思いました。叔母の孫だという人、兄嫁の姪だという人、岩手に住む従兄弟、誰それの誰それだという人と思いもかけず連絡がとれ、協力して連絡をとりあいました。被災地の近隣にいる従兄たちがガソリン入手も困難な中、何時間も並んで手に入れ支援に入り込んでいるそうです。
刻々と変わる原子炉の危険。
まだ続く余震の恐さ。震源がなんとなく南に降りてきているような不気味さ。
街が壊滅という実態。
私たちはこれからも地獄をみないとは限りません。
2011年3月20日日曜日
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