沖縄戦で家族を失わなかった人はあまりいない。平君のじいさんもおじさんも殺された。それと同じように戦場になった沖縄でいくさの前から残っている草木や光景は珍しい。
首里城の裏影にそのいくさの前から残っているという木や祠を案内してもらった。首里城を東シナ海側に降りていくところに社長の家はあり、そのまた下ったところにある食事処で琉球料理の夕餉を皆と共にした。その道すがら向こうに見える丘を上る大きな道路は、いくさの前はこちら側に繋がっていたという。こちらの丘陵から臨む海には、あたり一面アメリカ艦船で埋まっていたらしい。社長は私よりずっと年下だから見たわけではない。あの道はちょうど丘の裏側だったので「カンポー」があたらなかったのですね、カンポーってわかりますか。ええ、艦砲射撃のことですね。
種子島訪問の初日は、各所の見学を終えたあと西之表市街を越えて東シナ海が一望できる丘に案内していただいた。あの西の方向に特攻出撃をした戦艦大和が沈められたという。天気がよければ夕日も見えるところだ。市の観光案内によれば「夕睴が丘」というところで、「市街地を展望できるポイント。この場所から真西約280kmの地点に戦艦「大和」が没している。春分の日、秋分の日には、夕日がその地点まで導いてくれる。」とある。
大和を率いる艦隊の伊藤長官は友軍機の掩護もなく、出撃日程すら東京の地下防空壕奥深くにある連合艦隊司令部から操作される不条理を嘆きつつも、命令を遂行せざるをえなかった。そして3,000名以上の艦員が肉片となり海の藻屑と消え、沖縄では11万人余の軍民が命を奪われた。ヤマト世(ゆ)のいくさでむごたらしい屍となった。
NHKで伊波普猷(いはふゆう)の足跡を、TBSで若泉敬のドラマを、そして金曜日はNHKハイビジョンで「笑う沖縄!百年の物語」を観た。
危険な普天間基地は放置のままで、菅さんは辺野古移転を高言する。
思えば、沖縄差別はついこの間まであった、よく覚えている。
いっそ沖縄はあのとき、独立すればよかったのにとすら考えた。
私の中のいろいろなことが脳裏をよぎる。黒羽清隆さんの「太平洋戦争の歴史」(講談社文庫)。
誰もが名著と言う「戦艦大和ノ最後」(吉田満著)のページを、息を飲むがごとくめくる。これほどに臨場迫真に著せるものか、…。「小説琉球処分」(大城立裕著)に続く。
ところで、生きていたら明日で99だ。そしたら義兄と共催で白寿の祝いを盛大にやろうと意気投合していた。義兄とはいえ人の親を祝ってくれるというのがうれしかった。母には生きる意欲は充分にあったが、大腸癌に斃れ、成就できなかった。その明日はまた、南の島を再訪しようという謀議を名目に食事会だ。ついこの間までは楽しみはあとに取って置くという人生を歩んできたような気がするのだけれども、最近は「今しよう、すぐしよう」(Yさん)というように人生に臨んでいるような感じがする。ま、そういうことだ。
種子島から買ってきた飛び魚の開き(冷凍)、いつだったかこれもうまかった。
2011年2月27日日曜日
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