もうあのときの彼のお嬢ちゃんは高校生になったらしい。出会ってから10年を超える。
少しは落ち着いた老紳士を演じようと思っていたのだが、Tさんに再会した途端、ボルテージがあがってしまい、いつも以上に饒舌になっていく自分に内心驚いた。対面に座っている九州の友人SさんとHさんが、今日はいやなことがあったんだろうと笑いながら聞いている。長野のTさんとは2、3年ぶりかな、長く会っていなかった。浦和に来てこの春で出向が4年目に入るという。もちろん単身赴任だ。食事はどうしているのかと聞いたら、毎日職場の人と一杯やって済ませているらしい。
当時の我が社の営業本部長くんの指針に従い、担当を任された長野の得意先には特急のあずさ、あるいは高速バスに乗って毎週2、3回は通った。まだ携帯もモバイルパソコンも持たされていない時代である。ほとんど入り浸りなのと、得意先とはいっても身内みたいな親近感があって、そのうちに空いている机と電話を自由に使わせてもらえるぐらいになった。そこの幹部も若いときは友人同様に付き合った人たちだった。そのときの商談窓口が中堅幹部のTさんだった。馬が合った。あたりがソフトで人柄もよく、そして仕事ができた。だから誰からも好かれていた。
今の仕事の話になっても感ずるところがほぼ一致した。なんでこうもお追従が多いのだろうと。しかも幹部の気が変われば、みんなが変わるのよと。よくも悪しくもちょっとテンでバラバラだった彼の元の職場からみれば、違和感があるのだろう。私は慣れて諦めてしまっているのだけれども、あらためてそう聞けば新鮮な違和感だ。
時の経つのも忘れ2本目にいれた焼酎のボトルがずいぶん減っていた。今度はTさんまでもが饒舌になっていた。当時、私の印象がよほど強かったらしい。我が社らしくないという意味で、親近感を以って。どうも私のタイプは我が社にはいなかったらしい。他の得意先でもよく言われた。貴方はそっちではなくて、こっち向きだと。だからこっちに来いと。その手の機会が2度ほどあったけれども、自ら逃した。彼によれば、こうだ。分析と現状認識から説き、違う観点から突いてきたと。どうも褒められ過ぎとは思うが、へえ、そんな風に捉えてもらっていたのかと内心悪い気はしなかった。確かに私の拙案をよく受け容れてもらい、またその企画もよく当たった。そのころは、まだ業績もよいころで運もよかった。一人、思い出話の中でどうも私のことを褒めているらしいのだが、私も酔いがまわって聞き逃した。その方がいい、私はなんちゃあならんヤツだから。
80年代には先駆けて海外加工を少し手掛けた経験から、むしろ国内加工の確かさを実感していた。国内資源の良さを知っていたし、その方向に向く方が我がグループの使命であるし事業的にも成り立つと信じるようになっていた。また切干大根のような農産加工品の産地調査を通じて、仕入れという観点からも日本農業と地方の疲弊を肌で感じるようになっていた。だから、地元をやろう、国産をやろう、土作りからできた加工品をやろう、タイムセービングもとりいれながらたとえ加工品でも手を抜かないメニュー提案をやろうと訴えた。
いやあ、この人の声おおきくてねとTさんは言う。周りの人にみんな聞こえているのよ。私のテンションの高い声はよく通るらしい。人によっては耳障りに聞こえるはずだ。
佐賀と北海道の生のたまねぎをホントに涙を流しながら刻んでつくるドレッシング、宮崎の切干大根、山川の本枯れ節(かつお節)など、一緒に産地にも行ってみた。私はあのとき初めて霧島山を裏側から見た。霧島降ろしという季節風のことを知った。あのとき気にも留めなかった新燃岳が今は爆発しその霧島降ろしに載って火山灰が甚大な被害をもたらしている。
あの当時、人をよく観るべきだった、今考えれば毛沢東のようなパワハラ幹部と生意気にも無鉄砲にも真っ向からぶつかた。そして粉砕され挫折した挙句、ようやく傷心を立ち直らせているころだった。
幾星霜、人員整理に閉店が続く。相見積もり、価格競争、品目拡大が続いている。日常は渦中にいて、波に揉まれているらしい。
少しは落ち着いた老紳士を演じようと思っていたのだが、Tさんに再会した途端、ボルテージがあがってしまい、いつも以上に饒舌になっていく自分に内心驚いた。対面に座っている九州の友人SさんとHさんが、今日はいやなことがあったんだろうと笑いながら聞いている。長野のTさんとは2、3年ぶりかな、長く会っていなかった。浦和に来てこの春で出向が4年目に入るという。もちろん単身赴任だ。食事はどうしているのかと聞いたら、毎日職場の人と一杯やって済ませているらしい。
当時の我が社の営業本部長くんの指針に従い、担当を任された長野の得意先には特急のあずさ、あるいは高速バスに乗って毎週2、3回は通った。まだ携帯もモバイルパソコンも持たされていない時代である。ほとんど入り浸りなのと、得意先とはいっても身内みたいな親近感があって、そのうちに空いている机と電話を自由に使わせてもらえるぐらいになった。そこの幹部も若いときは友人同様に付き合った人たちだった。そのときの商談窓口が中堅幹部のTさんだった。馬が合った。あたりがソフトで人柄もよく、そして仕事ができた。だから誰からも好かれていた。
今の仕事の話になっても感ずるところがほぼ一致した。なんでこうもお追従が多いのだろうと。しかも幹部の気が変われば、みんなが変わるのよと。よくも悪しくもちょっとテンでバラバラだった彼の元の職場からみれば、違和感があるのだろう。私は慣れて諦めてしまっているのだけれども、あらためてそう聞けば新鮮な違和感だ。
時の経つのも忘れ2本目にいれた焼酎のボトルがずいぶん減っていた。今度はTさんまでもが饒舌になっていた。当時、私の印象がよほど強かったらしい。我が社らしくないという意味で、親近感を以って。どうも私のタイプは我が社にはいなかったらしい。他の得意先でもよく言われた。貴方はそっちではなくて、こっち向きだと。だからこっちに来いと。その手の機会が2度ほどあったけれども、自ら逃した。彼によれば、こうだ。分析と現状認識から説き、違う観点から突いてきたと。どうも褒められ過ぎとは思うが、へえ、そんな風に捉えてもらっていたのかと内心悪い気はしなかった。確かに私の拙案をよく受け容れてもらい、またその企画もよく当たった。そのころは、まだ業績もよいころで運もよかった。一人、思い出話の中でどうも私のことを褒めているらしいのだが、私も酔いがまわって聞き逃した。その方がいい、私はなんちゃあならんヤツだから。
80年代には先駆けて海外加工を少し手掛けた経験から、むしろ国内加工の確かさを実感していた。国内資源の良さを知っていたし、その方向に向く方が我がグループの使命であるし事業的にも成り立つと信じるようになっていた。また切干大根のような農産加工品の産地調査を通じて、仕入れという観点からも日本農業と地方の疲弊を肌で感じるようになっていた。だから、地元をやろう、国産をやろう、土作りからできた加工品をやろう、タイムセービングもとりいれながらたとえ加工品でも手を抜かないメニュー提案をやろうと訴えた。
いやあ、この人の声おおきくてねとTさんは言う。周りの人にみんな聞こえているのよ。私のテンションの高い声はよく通るらしい。人によっては耳障りに聞こえるはずだ。
佐賀と北海道の生のたまねぎをホントに涙を流しながら刻んでつくるドレッシング、宮崎の切干大根、山川の本枯れ節(かつお節)など、一緒に産地にも行ってみた。私はあのとき初めて霧島山を裏側から見た。霧島降ろしという季節風のことを知った。あのとき気にも留めなかった新燃岳が今は爆発しその霧島降ろしに載って火山灰が甚大な被害をもたらしている。
あの当時、人をよく観るべきだった、今考えれば毛沢東のようなパワハラ幹部と生意気にも無鉄砲にも真っ向からぶつかた。そして粉砕され挫折した挙句、ようやく傷心を立ち直らせているころだった。
幾星霜、人員整理に閉店が続く。相見積もり、価格競争、品目拡大が続いている。日常は渦中にいて、波に揉まれているらしい。
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