学校の前は一面田んぼでした。田んぼではスミレの花は咲き終わり、畑の菜の花も終わり、校庭の桜が咲いている頃でしょうか、小学校にあがりました。考えてみればもう半世紀以上も前のことです。あるとき、滅多に私の面倒はみない父親が珍しく私を散歩に連れていきました、それは小学校への通学路を教えるためだと終わってみてわかりました。母親が託したのでしょう。途中にある「暮川(くれがわ)」という小川の水面が春の日差しをきらきらと映していました。
入学してみれば、クラスは5つあって私は1年1組。なんだか、わけもなくやったと思いましたね。でも、幼友達のヒロキくんとは別のクラスになりました。校舎には暗いままでガラ空きの教室がいくつか並んでいました。もとは11クラスあったそうです。入ったばかりの一年生には少し不気味でしたので、今でも印象に残っています。当時、私たちが生涯、「団塊の世代」のみなさんの次を歩むことの自覚はまったくありませんでした。
それまで「わいどん(汝どん)とおいどん(俺どん)」で遊んでいたのが、その日から共通弁を教え込まれて「君と僕」になりました。クラスにはお金持ちの子も貧乏な家庭の子もいましたが、まだ、たかがしれた「格差」でした。
学校にあがる前にひらがなの読み書きはすっかりできていて、もう漢字に興味がありました。落ちこぼれることはなく授業は楽しかったです。みんな、同じようで活き活きしていたのではないでしょうか。先生がチョークで丁寧に書くひらがなはとても美しく、いつも尊敬の眼差しで黒板を見上げておりました。
満面の笑みを浮かべ、5本の大きな指で頭をずかっとつかみ、「おまいたちゃ、もじょかね」(お前たちはかわいいね)と言ってゆさぶる仕草が、担任の谷山先生の愛情表現でした。ときに先生は感極まって力を入れますから、さすがに「せんせー、痛かが」と言ってふりほどきましたねぇ。ひとりひとりを苗字ではなく名前で呼び、まるで遊んでくれるように接していました。今でいう「成果」とか、出世とかには縁もゆかりもないようなベテランの男先生でした。
教室の姿とか、教育とか私はこういうものだと今でも思っています。
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