2011年12月6日火曜日

康人叔父

太平洋戦争勃発の翌年1942年(昭和17年)12月に大学を繰り上げ卒業というから文系だったのだろう。陸軍幹部候補生として志願43年2月1日入隊。久留米予備士官学校で6か月の猛訓練を受ける、実際に死人がでるようなものだったらしい。同年10月鹿児島に配属、内地勤務の後、満州はソ満国境に勤務、後フィリピンに転属。周りの輸送船はほとんど沈められたらしいが運よく上陸。陸軍少尉として前線におっていざとなれば抜刀して突撃隊長となるべきもののさらに悪運強く、偶然が重なり生き残る。ほとんどが戦死。戦場のことを書いている奴がいるが本当のことはわからない、戦後会ったが要領のいいやつだった。復員してきて故郷隈之城の駅に降り立ったとき2つ年上の兄が迎えにきたときは、思わず足があるかと確かめたという。上の叔父は兵隊でひっぱられ、とうとう死ぬまで軍隊の時の話はしなかったらしい。同じ部隊に偶然いた従兄弟が戦死し、母方の叔父からお前は何故帰ってこられたのかとなじられたという。

電話先では自らのかずかずの病名をあげ、叔母も同様に数々の病を持っていると言う。どれもこれも聞けば複雑重篤なる病名の山に聞こえる。すぐにでも会いたいという。年齢からすれば、さぞかし元陸軍中尉を「しっかりせよと抱き起し」という場面・状態を想像して、姉を誘いはるばる2時間半かけて叔父宅を初めて訪問した。

JR最寄駅の改札を出て電話をすれば、1、2番乗り場からバスに乗り4つ目のバス停にて降りよと。指定のバス停にて降り立ち再び電話をすれば、道路より直角なる坂道を上がれ4軒目だという。見上げれば高台、豪邸が立ち並ぶ。えっ、まさかと4軒目の階段をのぼり門扉の表札をみればまさしく叔父の名字。門を入れば芝生があってこじんまりとしてはいるもののりっぱな造り。とはいえ、中に入れば病人老夫婦宅の雑然たる様子かと思いきや、整然たる宅内。叔父も叔母も足腰は弱ったというもののかくしゃくたるもの。物忘れの繰り返し程度で、認知症の気配もなし。おれは元軍人、元役人の癖で胸を張って、そうふんぞり返って生きてきたと冗談ともつかぬことを言っておどけて見せる。母方の叔父叔母のなかでは一番情があっておしゃべりというのが私たち兄弟の評。

いたずらっぽく「お前はおれが死に損なっていると思ってきたのだろう、内ポケットに香典がはいっているのではないか」、そうだといえば、「そうかそうか明日ころりといくかもしれん」とはいう。杖をつき確かに足腰は歳相応に弱っているようだったが、「おれは今でも口は達者、役所でも歯に衣着せなかった、局長でも意見した」と。ところでお前はどうして辞めたのか、「楽をしたかっち考えもした」と薩摩弁で答えるも、ほんとか。まっ、よか、と。この人ペースメーカーを入れてから元気になったのよと叔母は言う。この義理の叔母の雅号は「陽泉」、書道と水彩画をやる。そろそろ昼飯を食いに行こうと玄関を出る。庭で記念写真、見晴らしはいいし叔父さん豪邸ではないかと言うと、叔父はこの方向に富士山も見えると付け加える。おいおい。

駅ビルのフランス料理屋で食事をご馳走になる。ワイン飲むだろう、というから「なんでも」と応える。叔母と姉は飲まぬから、グラスを叔父と私の分で注文し赤ワインをつがせるも、自分ではほとんど口をつけず私によこす。仕事時代はほとんど毎日午前様、田舎に帰れば「焼酎飲んごろ(しょつのんごろ/ヘビーな焼酎飲み)」。酔えばろれつのまわらぬ弟が何を言っているのか姉である私の母は聞き取るのに苦労したらしい。その叔父もさすがに酒は飲めぬようになっていた。で、晩酌をしないかというと大分の麦焼酎を少しやっているらしい。気づけば5時間経過、とりあえず元気であることに安堵し別れを告げる。もう飲まなくなったナポレオンもオールドパーもあるから今度取りに来いという。息子さんたちにあげればいいといえば、あいつらは要らんという。それなら、また今度いただきにあがりましょうと。会えてうれしかったよ、こんどは奥さんをつれてこいと言う叔父叔母と握手して別れ、バス停に向かう姿を見送る。

末っ子(方言で「すったれ」という)である私は、地元には居ない「東京」の叔父叔母親戚たちとは付き合いの必要がなく、私自身も不義理を重ね年賀状のやりとりぐらいでお茶を濁してきた。役人で自民党、高校時代からこの叔父には意見した。それが面白かったらしい。種子島に何度も足を運んだのは公団の総務課長の時代だったらしい、漁民には手を焼いたと。

この叔父夫婦とは学生時代以来の再会で、ここの叔父宅を訪ねたのは初めて。わずか2時間半の距離を今日まで行くことがなかった。麓の出身(士族ということ)で教員をしていた若き叔母を、母の親友である峰森先生と母がみそめお見合いのきっかけをつくったらしい。昔ながらの夫唱婦随を強要して憚らぬ封建的な叔父さん。やんわりと久しぶりにたしなめたが、馬耳東風。

叔父91歳、叔母84歳。思ったより元気そうでなによりだった。

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