2011年6月8日水曜日

あざみの佃煮



今日もあざみの佃煮がお弁当のご飯の上に乗っかっている。
種子島の食堂の「美の吉」の陶山さんから分けてもらったものだ。あざみは浜の植物でそれを自分の畑で育てている。手作りで1パック300円。もともと売り物だけれども、まだパックはされていなかったものをどうしてもと言って、別れしなにパックしてもらった。あざみの佃煮は種子島の産品のひとつではあるけれども、市販品をみたら添加物が使ってあるので、こちらで分けてもらってよかった。日持ちはしないのだろうけれども、手作りが手に入るのはありがたいことだ。そもそも味が良い。
その種子島を再訪してから10日が過ぎた。心には情景が残っているのに、長く日記をつけなかった。絵心があるなら絵に描く方法もあるのだろうけれども。いくら心に残っていても忘れていってしまう。でも、重いものがある。

「週刊金曜日」の田中優子さんのコラムを読んでいて、はっと思った。佐高信さんが言っているらしい。内省していてはだめなんだと。東電や政府が反省しているかと。黙っていたらキャツらの思うツボだと。

そういうときなのだ。
だめなりに、私は私なりに書くしかない。

2011年5月24日火曜日

COLD

 いくらなんでもと思って、日曜日の午前中の陽気で冬ものは仕舞った。そしたらこの冷え込みだ。ついこの間まで、ついこの間といっても10年前のことだけれども、暑さ寒さは平気だったのに、いつのまにか寒さには耐えられなくなってきた。気合が入っているときはいいのだけれども、のほほんと油断してしまったときの寒さはこたえるものだ。

 うすら寒さは、なぐさめもなく日の丸バックでがんばれニッポンの有言無言の圧力や、ここまでしてきた原発推進勢力の空っとぼけや、原発危機に極東まですっ飛んできたサルコジジィや原子力姉御たちなんだけれども・・・。

 スリーマイル島もチェルノブイリもあったのに経験がないようでピンとこず、また五感にもわからぬのでなすがままに過ごしている。海や大地に蓄積され長く無くなることはない。芯からの寒気をそのうち感じるのだろうか。この代物のことで、ただただ、子や孫たちに申し訳ないそう思い始めている。

 夏風邪をこじらせた人もいるらしい、気の毒だ。

2011年5月22日日曜日

身近な恐怖

 つれあいは今、松江に行っている。ぶらりと出発した新婚旅行先の一つだった。思い出の地だ。できたばかりの国民宿舎を前日の旅先から予約して泊まり、どこか歩いて行って確か夕食にはおでんを食べた記憶がある。つれあいは何も覚えていないという。いいところだけれども、再訪して思い出すものはなにもないと言ってきた。その県庁所在地である松江にも島根原子力発電所がある。

 1995年1月の阪神淡路大地震で兄は財産に甚大な被害を蒙った。阪急電車の高架がひん曲がっったように人生も狂った。家族の命に別状があったわけではなかったが、その後義姉がうつ状態になったりした。あれほどの激甚な地震に遭遇したら恐怖は忘れられないだろう。ところがその2年後。1997年の3月と5月に今度は故郷で大きな地震が起きた。鹿児島県北西部地震(川内地震)という。実家は戦後まもなく建てた家で、母が独り暮らしだった。兄に続いて母までもかと思った、えらいことになったと心配した。しかし、周辺では相当の被害があったにもかかわらず、実家も母も大事にはいたらなかった。震源がもう少し南にずれていれば危ないところだった。そしてそれは川内原発にも言えた。しかし、九電は原発を止めなかった。印象には残ったが、月日が経つにつれ記憶が薄らいでいった。

 うかつだった。これほどのことが身近に起こっていながら、これまで地震のことも原発のことも無意識に考えからはずそうとしていたように思える。一過性のことのように。そうではなくて連関しており、現実にこの列島は「大地の激動期」が始まっていた。そしてついに、このたびの東日本大震災でつれあいの家族に犠牲者がでた。1月に会ったのが最後になるとは夢にも思っていなかった。併せて原発にも危機が迫っていた。どこで今回の「フクシマ」が起きても不思議ではなかったのだった。どこに行こうとも、逃げようがない日本列島になっていた。
 どれをどう考えても原発はやめたほうがよい。もちろん核兵器は言うに及ばず。

2011年5月21日土曜日

義兄からの依頼



 おもしろいことを頼まれた。叔父叔母などに促され来月両親の葬儀をやることになった。それで、つれあいを介して義兄から依頼された、義父母の生い立ちを描いてくれと。私なら義父母から話をよく聞いていたのではないかと。儀式はキリスト教式だ、私には想像がつかない。牧師さんにあらかじめ両親の略歴を伝えておかねばならないという。おいおい、冗談じゃないよと。実の子であって、生まれてこのかた義兄(にい)さんは両親と同居もしてほとんど身を寄り添って暮らしてきたではないかと。
 津波で様々なものが流出したのかも知れない。まあ事情が事情だし、私が詳細や歳月の機微を知る由もないのだが、知る限りで、私の視角からの「生い立ちと略歴」を書いてみた。画像をいれてちょうどA4版2枚にまとまった。本日郵送した。

秀雄・陽子さんの生い立ちと略歴



 秀雄さんは、岩手県南部の内陸部の町にて父茂七(23歳)、母たまき(21歳)の長男として大正8(1919)年9月28日に生れました。父親の茂七さんはその後も子宝に恵まれ、秀雄さんにはたくさんの弟妹たちがいました。また、茂七さんは勤勉で且つ商才もあったらしく、金物商として行商から身を起こし港町気仙沼にお店を構えます。それは昭和12(1937)年2月のことであったと考えられます。ちなみに、昭和三陸津波が起きたのはその4年前の昭和8(1933)年3月のことでした。
 秀雄さんは長男であったために跡継ぎとして処遇されます。晩年、秀雄さん自身が語っていました。高等小学校を出て塩釜で5年間修業のために働いたこと(15~20歳)。そして徴兵検査の歳になり甲種合格、昭和14(1939年)年12月に入隊(20歳)します。泥沼化した日中戦争の最中でした。金沢で即席の初年兵教育を受け「北支」(中国戦線)に1年半、さらに「南方」と呼ぶ今のベトナムに派遣(「佛印進駐」)され、結局、太平洋戦争を経て終戦までそこにいました。6年半ずっと軍隊にいて、兵隊のままで終わったらしいのですが、その戦友も床屋さんの小野寺さんと二人だけになったと寂しそうでした(2009年聞き取り)。昭和13(1938)年に実母が亡くなりましたが、ほぼ13年間、事実上、実家に帰ることはなかったといいます。
 商家の長男で丁稚奉公、大正生れで兵士としての長い戦争体験。戦前は歴史に翻弄された半生でした。おもしろおかしく陽子さんが脚色するところによれば、いつでもどこでも「快食快眠快ウン」。そして粘り強さと持ち前の数値に明るい能力で生き残ることができたと考えられました。戦闘中、九死に一生を得たこともいくつかあり、徹底して叩き込まれたのでしょうか聞けば「軍隊用語」がいくらでもでてきました。死人の臭いはすごかったこと、馬を曳いていたらロッキード(P-38?)が襲ってきてさっと散ったら、馬がやられたことなどむごい体験をしたようです。中隊の三分の二がビルマ作戦に行って生き残っていない、きっとあの悪名高い「インパール作戦」だったと考えられますが、運良くその部隊には配属されなかったようです。


 陽子さんは、その年の暮れに昭和になった大正15年(1926)の5月15日生れでした。父の名は等、母はテルコ、岩手県南部の村の農家に3人姉妹の真ん中として生れ育ちます。父親が肺病で伏し早くに亡くなったため、男手のない女だけの農家で苦労したそうです。5月のよい陽気に生れたせいでしょうか、その名のとおり快活な女性でした。身長が165cmほどあって、当時としては「大柄な女」でした。「このひと若いときいじめられたの、からだが大きいから」と陽子さんのことをさして、背格好も顔も少しも似ていない妹である芳子叔母さんが言っていました。あの時代、背が高いことは肩身が狭くいやだったようです。このたび、遺品を整理していて見つけた昔の先生からの便りに「あなたは金子みすずのような詩人になれると思っていた」と記してありました。陽子さんは文学少女であったことが窺えました。きっと夢見る少女のはずだったのですが・・・、夢多きはずの乙女時代は戦争一色の世の中でした。軍事教練で教官にどれほどいじめられていたかということをよく恨んでいました。ですから実感からも陽子さんは「戦争が嫌い」でした。

 復員してきた秀雄さんは父親の茂七さんのもとで、お店で一緒に身を粉にして働きます。戦後復興のなかの金物商という商いの内容と立地の良さでお店は繁盛していきます。広く唐桑や大島にも得意先があったといいます。内陸部の農家育ちの陽子さんも「街へ」出て行きたかったのではないでしょうか。気仙沼の町の、商家の大家族のもとへ嫁いできたのは陽子さんが21歳のときでした。お見合い結婚で昭和22年(1947)のことでした。秀雄さんは28歳。秀雄さんは背が低く感情の起伏の少ない性格で実直な人柄、陽子さんは大柄で社交的な性格でした。知らない人から、あまりにおとなしい秀雄さんは「お婿さんか」とよく間違われたそうです。蚤の夫婦そのままで外を一緒に歩くとき陽子さんは気を使ったそうですが秀雄さんは無頓着だったそうです。そして一男二女に恵まれます。子供たちにはキリスト教に帰依した祖父の茂七さんが聖書からとって名付けたそうです。やがて、二代目として父親からお店を任され、歳の離れた弟妹の面倒もみながら我が子達を育てあげました。

 そうして幾星霜、9人の孫たち、さらには3人のひ孫たちにも恵まれました。長男夫婦・孫夫婦とともに四世代が同居同様に住まいし、健やかで幸せな晩年をおくろうとしておりました。秀雄さんはオルガン弾きや菜園いじりを、陽子さんはご近所のご隠居「三羽烏」とのサロンを日々楽しんでおりました。家は商いをしていましたので職住が同じで、いつも一緒の仲睦まじいおしどり夫婦でした。そうではありましたが、このたびの不慮の大津波に遭遇し、あっという間に旅立ってしまいましたのも、ふたり仲良く一緒でありました。

芸に秀でず生きる

男には一芸に秀でた人と何の芸もない人とゲイの人がいる、ことをご存知か。

幸か不幸か地位も名声も得てはいぬ。芸もないので今がある。

ずっと右腕、右肩が凝る、痛む。どこかがゆがんでいるに相違ないと考え込んでいる。

泳げない、わけではない。

本式でもなく器用でもないのだな、無理に泳げばどこか自分を痛める。

せかせかとしたのに、むしろのんびり生きてきたものだ。それで今がある。

自慢じゃないが芸はおろか能もない。人徳までもない、謙遜ではなく。

だから人柄のいい人と付き合うときだけ気持ちがいい。それで今を生きている。

マイ・サマータイム

政府や他人にとやかく言われなくてもサマータイムをやっている。
2時3時にはたと目が覚める。朝5時には起きて洗濯物があれば済ませる。二人暮らしだから、さほど頻繁にもない。当駅始発という準急に接続できるよう早い時間に勤めに出る、いつもじゃないが。肉体労働でこそないが、神経をすり減らしクリックの繰り返しで右腕の腱を痛めている。夕食をとればくたくたになってダウンするように就寝し、夜中にゴソゴソし、朝5時にはまた起き出している。
なんだ、行動が老人性になっただけだと言えばそれまでだが、夜の9時か10時に眠られなかったときにはへとへとが倍になる。夜更かしは癖になりやすい。早起きは好むと好まざるとそういう体質になってしまった。

故郷のらっきょうの企画があったから生協で頼んでおいた。届いた日すぐやらねばと思いつつ、当日の夜は疲れていた。早起きなので翌日の朝からやるのだが、根気のいる手仕事だ。やむをえず出勤を遅らす。手指がくさい。

あれからも国策そのものはおろか、原発震災の対処や放射能情報までもうさんくさい。

広瀬隆さんの「福島原発メルトダウン」(朝日新書2011年5月30日)を一気に読み終わる。次に吉井英勝さんの「原発抜き・地球再生の温暖化対策へ」(新日本出版2010年10月)を読み始める。