2011年7月5日火曜日

山路こえて 

 被災したとはいえ、地域の絆・気風なのだろう、
 岩手の親戚たち義兄の親友たちが支えてくれて6月25日(土曜日)の葬儀にようやくこぎつけた。私には無理をしているようには思えたけれども、条件にあるところはみな葬儀をあげていた。それが100日目あたりの区切りだったのだろうか。

「山路こえて ひとりゆけど
主の手にすがれる 身はやすけし (讃美歌404番)」

 つれあいの両親は、洗礼は受けていなかったけれども、讃美歌には親しんでいたそんな大家族だったそうだ。祖父がクリスチャンであった。

 葬儀で牧師さんが語る。
 戦前、軍国主義の時代に、侵略戦争にみなが加担せざるをえなかった時代に、皇国史観でみながしばられ、教会は敵性宗教として迫害を受けた。そんなときに、牧師とともに礼拝を守り続けたのは、気仙沼ではたった4家族であった。礼拝には常に刑事がいて、「やめ、止まれ」を命ぜられた。2家族はつれあいの祖父の家族であり、祖父のいとこの家族であった。つれあいの実家の大切な歴史というものを説かれた。牧師さんの家族とも信仰において祖父の代はとくに親しかったらしい。

 つれあいの友人たちも被災者だが、広告をみて参列してくださった。
 東京近辺の遠方に住まいしながらも、つれあいの従兄弟の家族までも駆け付けていただいた。

 告別式のときには、孫のかおりさんと晴子さんがそれぞれ「お別れの言葉」を贈った。幼いころ二人とも忙しかった親に代わってほとんど陽子さんの背中に負ぶわれ育った。可愛がっていたネコ二匹と一緒だったね、幸せな日々がつづくと思っていたのにね、と。

 結婚式用の商業的教会の儀式には心ならずも付き合ったことはあったが、まっとうな教会の葬儀というものは初めて経験した。そうして両親は「昇天」した。そして、きっと陽子さんが愛唱していたように気ままな“千の風”になれたことだろう。縁あってお付き合いして30数年の月日を重ねた。私の両親もこの義理の両親も今は私のこころのなかにある。

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