2011年12月14日水曜日

ペダルを踏んで(2-2)



日曜日、岩手からの帰り道、川越に降りてふと考えた。長男の新居に近いはずだと。まだ昼間だ。試しに連絡をいれた。近いから、迎えに行くと言う。ちょうど見舞に行って30分ほど前に帰って来たところだったらしい。生まれてくる家族のために引っ越してきたが、今はひとりだ。入院中のチカさんはこの新居を知らない。角部屋で窓も各々の部屋についている、今度は和室もある。駅に近いのに閑静だ。それにしても高級なマンションだ。

昨夜は忘年会で金城さんに会った。前に金城さんから自転車の話を聞いていた。それで、影響を受けこのたび自転車を買ったこと、乗って間もないのだがそのことを話題にした。やはり乗る同士でなければ話ははずまない。この仲間で走るのはマラソン派と自転車派がいることになる。

今日は曇って肌寒い。あきらめて机に向かうことができるが、月、火と晴天に恵まれた。絶好の日和だった。長男が一人では食べきれないからといただきもののチョコレートケーキを1箱くれるという。月曜日は会って次の日だったけれども、長男の職場の昼休みのころに取りに行った。片道14km、正味約1時間。車道を直進したらもっと早く着けると考えているが、川沿いの自転車専用道路に出て結局このルートを行った。だが、こんな安全で決められた自転車をぬくぬく行くなんてこれまでの職業人生のようだったので、最初は違う近道を行こうとした。そうしたら途中から畑道になってしまい、ぬかるみに車輪をとられピカピカの新車が泥だらけになってしまい情けない事態になった。ようやく一般道に出て自転車専用道路に行った。

ヘルメットにサングラス、ピチピチのウエア、「最初はカッコから入るでしょ」と金城さんが言う通り、すれ違うクロスバイクの人はみなそういう格好をしている。同好の仲間という目ですれ違いざまあいさつをしてくれる。私はヘルメットだけでウエアはまだだ。あれはイカニモでまだそこまではいっていない。しかし、さすがに汗をかき帰り着けば下着もシャツもびっしょりでジャンバーの裏までじっとりとしていた、あのカッコは寒そうだが合理性があるのだろう。

休憩を兼ねて、河原の公園で自転車の泥取りをしていたら通りかかった小さな子がケイリンの自転車だぁと言って通り過ぎた。ふふふふ、ふ、かわいい子だわい。自販機でもあったら、ジュースでも奢ってやろうかと思ったネ。

これから新宿に出て私の退職祝を兼ねて今夜は忘年会だ。走ること、旅のこと、支援のこと、津波のこと積もる話がある。人の本も買ってもらうけど…。

2011年12月12日月曜日

知恵と勇気



「評論家」余情 半は考えた。

大風呂敷はつかみようがない。しかも開くたびに広がる。いや、広がっている。大風呂敷を結ぶには地に足つけねばならぬ。

そのためには、
・・・
まずは飲もう
・・・次に寝よう
・・・・そしたら自転車に乗ろう

そのうちなんとか・・だろう♪(古っ!)

2011年12月11日日曜日

今日はきれいに晴れたようだ。
私の住む地域にはどこかの地点に富士山のポイントビューがいくつかある。少しづれたらもう見えない、不思議なものだ。自宅への帰りの自転車から茶畑の向こうに夕刻のシルエットが綺麗に見える。



昨夜は皆既月食だった。それが空気の清澄な北の高原地にいたにもかかわらず、すっかり酔って寝込んでしまったらしい。またやってしまった。いつ布団にはいったのか覚えていない。トイレで夜中に起きたときに服もぬがずに寝ていたのに気付いた。まだまだ酔いが残っており再びそのまま倒れるように寝てしまう。8時半に起こしに来られるまで起き上がることができなかった。なんて、馬鹿なんだ、ばかだ、ばかだ、野暮なやつだと心の中で叫ぶ。今朝は早く起きた、散歩をしたとかなんとか言って朝からビールをコップ3杯も立て続けに飲むご婦人の姿にそんな飲みっぷりをみたことがなかったので目が点になった。二日酔いが治まっておらぬようで帰りの車の中ではちょっと込み上げてくるものがあってつらかった。

3日もつれあいと会っていなければあれもこれもと積もる話だらけだ。

メールもこないし、どうせそんなことだろうと思っていたとつれあいになじられる。

そうそう、朗報があったよ(ハナシを逸らさなければいけない)。
へぇ~、ふ~ん、よかったねぇ。決めたのはいつごろのことだったんだろう。
むしろ心配していたのはためらっているんじゃないかって、そうだったらヒロミさんが可哀そうよねってつれあいは思っていたらしい。

一昨日の夜のことだ。ようやく到着して炬燵を囲み一息ついたころだ。このタイミングをみはからったようにさらっと「実は結婚することにしたからね」と発表する。さもありなんと思うも、よくぞ踏み切ったなとも考えた。よかったよかったということだが、鍋の準備で台所に立っていてその場にいなかったMさんがむくれる。理由は「おれには黙っておけというから今まで黙っていたのに、いきなり自分から言うとは何事だ」ということだ。「あちゃあ、ごめん、ごめん」と。Mさんのずいぶん酔いがまわっているときのごきげんな様子、怒りながら、「このやろ、このやろ」とぱっちりした目が笑っている。

春になったら彼女のところでお披露目やるからみんなで来てという。帰りの車の中では、家を開放する、みんなで家をシェアしようと。 彼がかつてニャンを飼っていたなんて初めて知った。カゲキ派であることは知っていたがネコ派でもあったのか。
Kさんとおしゃべりをしながら帰りの車中で考えた。
春になったら、けじめをつけてぶらり旅に出ようと。
日本中に、しかも風光明媚なところに限って原発があって、少し萎えたこともあったのだけれども。
50代で体力のあるうちに退職したのは何のためだったか。


まずはなつかしき九州を旅しよう、そしてかねてから夢想していた南の島へ。
リュックは買った。自転車も考えられる。

山川に拠点ができた、そして種子島にも足がかりができそうだ。

2011年12月8日木曜日

果報者



「12月8日」私が生まれ育ったころは社会に特別の感慨があった。
我が家の暖房は石油ストーブと炬燵。一人の時、ストーブはめったに使わない。
昼間机に向かっていたら吐息が白くなっていた。明日は茨城でも雪になるらしい。

昨日の夜遅くだ。
日付が変わるころだったかな。
おとうさんできましたよと、ふいに声を掛けられた。
何が?と振り向くと、ほら、と。
たたたたっと寄ってきて背中にあてる。
おうOH!(もうできたのか)

まだカノジョだったころ初めて「手編み」をもらった。
マフラーに帽子、手袋にちょっき、どの順番だったか忘れた(全部とってある)。結ばれて、最初の子ができたときにもおくるみを編んでいた(どこにいったのだろう)。
子育てで多忙になって、いつのころからか遠ざかったのだと思う。

津波に呑まれて亡くなった老母の遺品の毛玉、色も年季もまちまちの毛糸。
考えてもみなかった出来事。
母親の遣り残しを引き継ぐように。
悲しみを紛らわすように。
編み物に没頭し始めた。
まちまちを応用してショール(汎用性があってなんにでも使える)が出来上がった。次は孫のフード付きセーターまで。
編み物楽しくなっちゃった、と。

私が長く愛用していたヘチマ襟のカーディガン。くつろぎのカーディガン。
現地で買ってきたお気に入り。アイスランド毛糸のアイスランド製。
袖が少し長くて、いつもひっぱりあげていた。
年月を経てそれで袖に穴があいてきて、それがいよいよひろがってきた。
機能が同じようなセーターをデパートに行って二人でみてみた。
2万円近い値札。
「おとうさん編むよ」というから、急きょデパートを出て本屋さんと毛糸屋さんに。
失敗するかもしれないからと手ごろな毛糸玉で20玉。色柄はちょうどいいと思われる。それに太編み用の編み棒を買い求めた。
好きなことは夢中になれる。なんだかあっという間だったように見える。
「あれっ、ボタンどうしたの?」と訊いたら、「これっ。」
アイスランドのカーディガンのボタンの再利用。
よかった、ぴったしだね。

きっかけは母親の遺品、そして捨てるにもただでは捨てられなかった私のお気に入り。いわばそれらの「遺伝子を繋いだ」形になったのもうれしい。

とても暖かいもの。
ふふふふ、世界にふたつとないもの。

あのころは、○○くんできたよってわたされたな。
つぎは「おじいさんや、できましたよ」って言われるようになるのかな。

2011年12月7日水曜日

小さなクリスマスコンサート

車でまっすぐ南に向かえば今日の会場には1時間もかからずに行ける。

午後から「ゆいのもり 湯川あき 小さなクリスマスコンサート」に向かった。

開演30分前に着き、ちょうど湯川さんも着いたところだった。先に会えたので、増田レアさんの著書『山仕事賛歌』をプレゼントする。福島の手づくり味噌を復興させて希望をつないでいこうと提唱している人が書いた本だという手紙を添えて。

会場の「パン工房:ゆいのもり」はJR昭島駅からそう遠くない旧市街の側にある。少し時間があったので銀行と駅を訪ねていく。毎月の健康保険料の払い込み。そして盛岡への指定席と切符の購入。

湯川さんがここは国産小麦、無添加、天然酵母を使ったお店だと紹介する。湯川さんに促されて、お店の田中さんが知的障害者の就労するお店でパンをつくり販売していると付け加える。湯川さんは続ける。月曜日にコロッケパン42個がお店に並ぶ。1個180円、売上げ1万円にも満たない。これが現実。ほんとうにおいしい、からだにいいパン。このお店は娘がみつけた。「ハミング」というギターのグループもここでコンサートを開いている。それで、ここで地域のコミュニケーションのために歌わせてもらうことにした、今回で4回目だという。地域の人たちの理解が得られなかったらこういうお店は難しい。地域と一体になっていきたいと。

ピノキオがほんとうの人間になりたいという「星に願いを♪」
お得よと言って「♪クリスマスソング・メドレー」
Xマスプレゼントに欲しいものは「♪愛の贈り物」愛はすべてプ・レ・ゼ・ン・ト
~ここのご夫婦ほんとに仲いいのと急に紹介されて、うつむく
子どもが夢を持って育てられる街づくりをしたいもの
~双子のお子さんを連れてきた若いお母さん
~自走車いすに乗った重度の障害者まり子さんは24時間ヘルパーさんの支援を受けて地域生活をしている
命の価値のわからない社会を築いてしまった私たち団塊世代の責任を感じるの。
さだまさしさんの「♪いのちの理由(わけ)」が好きだそうでいつも歌う。浄土宗800年記念で作詞作曲されたもので最初は楽譜もなにもなくて苦労したという。
♪私が生まれてきたわけは、父母に出遭うため。―兄弟に出遭うため。友達に出遭うため。-愛しいあなたに出遭うため。幸せになるために誰もが生まれてきた。
今は幸せをはぎとられる時代になった。しっかり行政をみていかねばならない「♪幸せを売る男」
今上映中の「五日市物語」に出演している新聞記者のご婦人がリクエスト「♪百万本の薔薇」
お店の中の聴衆と一体となって全13曲熱演1時間20分。

帰りに双子のお母さんに声を掛けた。このお母さんも2か月入院して10ヶ月で無事生んだそうだ。生んだあとも大変でおじいちゃんも忙しいですよと言われた。今はとにかく無事に生まれさえすればと願っているのだけれども。男の子二人は来年小学校にあがるとのこと。写真を撮らせてもらった。

帰り間際にもう一度湯川さんと言葉が交わせた。福島県飯舘村で昔ながらのつくり方でおいしいお味噌を農村加工グループのみなさんがつくっていた。だったらそれおいしいお味噌よね、湯川さんが頷く。だけれども原発事故でバラバラになり味噌づくりの継承も危機に瀕していること。去年の材料でこさえたお味噌が残っていてそれを種味噌にしてこのお味噌(つくり)を残したい。あの本はその繋がりのきっかけになったことが触れてある。また、今度紹介します。うんわかった、避難所でもどこでもわたしシャンソン唄いにいくからと。
で、ご主人は写真が趣味なの?あっいやいや…。

帰りは真っ暗で、来た道をひたすら北上する。ナビがあって助かる。都境のような小高いところを越せば街並みがうっすらと見降ろせた。「翼よ」あれが所沢の街並みだろうか。

湯川さんはまじめなひとで、御本よく読ませてもらいますとつれあいに後からメールが入っていた。一昨日のみんなのきらきらした目と逸る顔が浮かぶ。

2011年12月6日火曜日

康人叔父

太平洋戦争勃発の翌年1942年(昭和17年)12月に大学を繰り上げ卒業というから文系だったのだろう。陸軍幹部候補生として志願43年2月1日入隊。久留米予備士官学校で6か月の猛訓練を受ける、実際に死人がでるようなものだったらしい。同年10月鹿児島に配属、内地勤務の後、満州はソ満国境に勤務、後フィリピンに転属。周りの輸送船はほとんど沈められたらしいが運よく上陸。陸軍少尉として前線におっていざとなれば抜刀して突撃隊長となるべきもののさらに悪運強く、偶然が重なり生き残る。ほとんどが戦死。戦場のことを書いている奴がいるが本当のことはわからない、戦後会ったが要領のいいやつだった。復員してきて故郷隈之城の駅に降り立ったとき2つ年上の兄が迎えにきたときは、思わず足があるかと確かめたという。上の叔父は兵隊でひっぱられ、とうとう死ぬまで軍隊の時の話はしなかったらしい。同じ部隊に偶然いた従兄弟が戦死し、母方の叔父からお前は何故帰ってこられたのかとなじられたという。

電話先では自らのかずかずの病名をあげ、叔母も同様に数々の病を持っていると言う。どれもこれも聞けば複雑重篤なる病名の山に聞こえる。すぐにでも会いたいという。年齢からすれば、さぞかし元陸軍中尉を「しっかりせよと抱き起し」という場面・状態を想像して、姉を誘いはるばる2時間半かけて叔父宅を初めて訪問した。

JR最寄駅の改札を出て電話をすれば、1、2番乗り場からバスに乗り4つ目のバス停にて降りよと。指定のバス停にて降り立ち再び電話をすれば、道路より直角なる坂道を上がれ4軒目だという。見上げれば高台、豪邸が立ち並ぶ。えっ、まさかと4軒目の階段をのぼり門扉の表札をみればまさしく叔父の名字。門を入れば芝生があってこじんまりとしてはいるもののりっぱな造り。とはいえ、中に入れば病人老夫婦宅の雑然たる様子かと思いきや、整然たる宅内。叔父も叔母も足腰は弱ったというもののかくしゃくたるもの。物忘れの繰り返し程度で、認知症の気配もなし。おれは元軍人、元役人の癖で胸を張って、そうふんぞり返って生きてきたと冗談ともつかぬことを言っておどけて見せる。母方の叔父叔母のなかでは一番情があっておしゃべりというのが私たち兄弟の評。

いたずらっぽく「お前はおれが死に損なっていると思ってきたのだろう、内ポケットに香典がはいっているのではないか」、そうだといえば、「そうかそうか明日ころりといくかもしれん」とはいう。杖をつき確かに足腰は歳相応に弱っているようだったが、「おれは今でも口は達者、役所でも歯に衣着せなかった、局長でも意見した」と。ところでお前はどうして辞めたのか、「楽をしたかっち考えもした」と薩摩弁で答えるも、ほんとか。まっ、よか、と。この人ペースメーカーを入れてから元気になったのよと叔母は言う。この義理の叔母の雅号は「陽泉」、書道と水彩画をやる。そろそろ昼飯を食いに行こうと玄関を出る。庭で記念写真、見晴らしはいいし叔父さん豪邸ではないかと言うと、叔父はこの方向に富士山も見えると付け加える。おいおい。

駅ビルのフランス料理屋で食事をご馳走になる。ワイン飲むだろう、というから「なんでも」と応える。叔母と姉は飲まぬから、グラスを叔父と私の分で注文し赤ワインをつがせるも、自分ではほとんど口をつけず私によこす。仕事時代はほとんど毎日午前様、田舎に帰れば「焼酎飲んごろ(しょつのんごろ/ヘビーな焼酎飲み)」。酔えばろれつのまわらぬ弟が何を言っているのか姉である私の母は聞き取るのに苦労したらしい。その叔父もさすがに酒は飲めぬようになっていた。で、晩酌をしないかというと大分の麦焼酎を少しやっているらしい。気づけば5時間経過、とりあえず元気であることに安堵し別れを告げる。もう飲まなくなったナポレオンもオールドパーもあるから今度取りに来いという。息子さんたちにあげればいいといえば、あいつらは要らんという。それなら、また今度いただきにあがりましょうと。会えてうれしかったよ、こんどは奥さんをつれてこいと言う叔父叔母と握手して別れ、バス停に向かう姿を見送る。

末っ子(方言で「すったれ」という)である私は、地元には居ない「東京」の叔父叔母親戚たちとは付き合いの必要がなく、私自身も不義理を重ね年賀状のやりとりぐらいでお茶を濁してきた。役人で自民党、高校時代からこの叔父には意見した。それが面白かったらしい。種子島に何度も足を運んだのは公団の総務課長の時代だったらしい、漁民には手を焼いたと。

この叔父夫婦とは学生時代以来の再会で、ここの叔父宅を訪ねたのは初めて。わずか2時間半の距離を今日まで行くことがなかった。麓の出身(士族ということ)で教員をしていた若き叔母を、母の親友である峰森先生と母がみそめお見合いのきっかけをつくったらしい。昔ながらの夫唱婦随を強要して憚らぬ封建的な叔父さん。やんわりと久しぶりにたしなめたが、馬耳東風。

叔父91歳、叔母84歳。思ったより元気そうでなによりだった。

2011年12月5日月曜日

母親の雑煮、つれあいのさんまの開き

現代なら鬱(うつ)のことも精神的戦争傷痍のことも少しはわかるのかもしれない。今朝のNHK朝ドラでの「カンスケ」の状態をみていて思わずふたりでこみあげてくるものがあった。母親の鬼のような形相で訴える姿「強いものだけではない」と。戸惑う主人公。ひとごとや過去の話とは思えない。

続くNHK自転車旅の「こころ旅」の案内に一転してこころ和む。正平さんの「下り坂大好き」もそうだな。いよいよ鹿児島熊本へと進むらしい。背景にうたせ船の帆がみえた。不知火海だろう。

鹿児島県北部の出水(いずみ)・長島あたりでとれた大きなえび(クマエビ)を焼いて天日で干したもの。これを雑煮の出しにする。1尾1000円ぐらいで高価だが惜しげもなく使う。里いもにほうれん草などが入っている。これはつれあいも気に入った。私の母親から習い、一度このエビを入手していつかつくってくれたことがあった。ゆらりゆらりとあのような帆船で獲る。郷土の雑煮はシンプルで豪華だ。

昨日今日と晴れた、暖かい。
さんまの一夜干し、今晩食べごろだ。そう言えば、さんまなんて食べたことなかったな、幼いころ。

あなたも「こころの風景」だしたらいいのにとずっと勧められてきたのだけど。
もう、関東に長い。