2011年5月17日火曜日

誇りある島Ⅲ

 郷土の地理を習ったのは小学校4年のときだ。この授業が気に入って、鹿児島県の白地図は何も見ずに描けるほどになった。県には複雑な海岸線と島がいっぱいあるので変化に富む。

 種子島は大隅半島の東南に平坦なひょうたんのように描き、屋久島はその西南にまあるく書く。奄美大島は三角に、加計呂麻島は三角形の底辺の下に長四角に描く。

 種子島のちょこっと横にちび丸く入れるのが馬毛島(まげじま)だ。だから、このころから認識があった。

 同じ県内にもかかわらず、初めて種子島を訪れたのは昨年の12月。仲間のみなさんと本場の本物シリーズ「沖ヶ浜田の黒糖」づくりを観に行く機会があってのことだ。早朝羽田を発ち鹿児島経由で空路種子島に入った。


 うわさには聞いていたが、眼下に見る島の姿に度肝を抜かれた。これは島ではない。緑豊かな島らしい島の姿がない。十字にできた滑走路のようなものが見え、まるで不沈空母のようだ。砂茶色の地肌がむき出しになった十字路は明日にでも軍事基地に転用できると直感できた。これがまぎれもない噂に聞いた馬毛島だ。米軍の艦載機の離発着訓練地(NLPnight landing practice 夜間発着訓練)の候補地に、そして鳩山さんのときの普天間の代替地として徳之島に次いで候補地ではないかと取り上げられた島だ。

 ここまで無残な姿になった南の島の姿に腹の底から怒りがこみあげてきた。

 あれから、ずっと先のことだと思っていた再訪のときが近づいてきた。

 その矢先に昨日次のようなニュースが配信された。
『<米軍再編>鹿児島・馬毛島で艦載機訓練 政府調整/毎日新聞 5月16日(月)2時30分配信

 政府は15日、在日米軍再編で米軍厚木基地(神奈川県)から米軍岩国基地 (山口県)への空母艦載機部隊の移転に伴い、陸上空母離着陸訓練(FCLP) を鹿児島県・馬毛島(まげしま)(西之表市)で行う方向で調整に入った。将来的には、米軍嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)の航空機の訓練の一部を同島に移転することも視野に入れている。

 6月下旬にも開く外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)での確認を目指す。ただ、「関係自治体との交渉はまったくできていない」(防衛省幹部)のが実情で、地元から反発が出る可能性が強い。

 米軍は現在、FCLPを東京・硫黄島で行っている。06年の「再編実施のための日米ロードマップ」は、FCLPの実施場所を「09年7月またはその後のできるだけ早い時期に選定する」とし、馬毛島や広島県・大黒神島が検討されたが、深刻な騒音被害をもたらす夜間発着訓練(NLP)を含むため、地元の反対で頓挫していた。

 防衛省関係者によると、今回の提案では自衛隊が施設を管理し米軍と共同使用する。地元の窓口を自衛隊にすることで、反発を緩和できないか検討している。

 馬毛島は鹿児島県・種子島の西約12キロにある無人島。鳩山前政権では、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の訓練移設先候補になった。同島のほぼ全域を所有する開発会社の社長が昨年11月、法人税法違反(脱税)の罪で起訴されている。』


 「悲しみを乗り越えて、未来と希望」天の為す災害にこそそれは思うが、私は人の為す乱暴な自然の破壊にそれを思えない。それはこみあげてくる怒りだ。軍事基地、原発、最たるものだ。こんなものに幸はない。たちはだかる「国策」に人は口をつむぐ。奔流に呑み込まれまいとする。ならば、飛び上がりぶんぶんとみつばちのように羽音をあげよう。

2011年5月16日月曜日

オモニ

 姜尚中さんの『オモニ』を一気に読み終わったところだったので私の頭の中は九州弁でいっぱいになった。つい九州弁を発するところだった。東京のど真ん中丸の内の日曜日の夕方からの飲み会。

 私にとって熊本弁は博多弁とそう変わらないように聞こえる。もちろん特有の言い回しは判る。義理の兄は熊本の人だし、ついこの間まで職場にいた親友の先輩も熊本の人だったから。

かつて熊本駅の近辺の景観というか様子をみれば、取り残された雰囲気、差別的空間というのが肌で感じ取られた。他郷の人間で、姜さんより少し後の時代の私にでも理解ができた。あのころのチョーセン人の立場や生業(なりわい)は熊本のずっと南の私の町でもほぼ同様だったと思う。

 ずいぶん昔「朝まで生テレビ」に出てきたころの“慌てず騒がず”、右でも左でもないようなナゾの東洋人。国士気取りのシンタローのような人種からは嫌悪された。教養豊かそうな姜さんからは、この小説に使われる圧倒的な熊本弁が想像しにくい。これまで、まわりくどい言い方で、専門用語が散りばめられ、引用の多い文章は得意ではなかった、というか多少辟易するところがあった。内容はほぼ『在日』に沿ったものであったように感じた。心情の骨格は既にそこに描いてあったが、『オモニ』は姜さんの初めての小説というように素直に読むことができた。

 『オモニ』の子である我が年代は、今、親を失いつつあり、老いの入り口に近づきつつある。親の世代の失ったものがほんの少しわかってきたような気がしつつある。そしてそれもまた違う。姜さんはそれを描くことができた。

2011年5月15日日曜日

85回目の

 取次店の老女将は我々の顔と名前を記憶している、もっと若いときは電話番号すら諳んじた。年に2度ぐらいしか出さない季節のクリーニング品を出しに行きながらふと考えた。

 これを五月晴れというのだろうか。たしかそれで姉の長女は「晴美」と名付けられたと記憶している。日差しが強い、紫外線は真夏並みだと昨日の予報で注意があった。
 これをいい陽気というのだろう。今日はつれあいの母の誕生日だという。それで「陽子」という命名をしてもらったのだろうかなどと思ったりもした。

 義兄からつれあいが聞いたところによると、陽子さんは飼い猫と一緒に亡くなっていたそうだ。目と口をしっかりつむっていたらしい、であれば荼毘に付す前に対面した表情とは違う。父の日はつい省いてしまうことがあっても、母の日は、そして誕生日も近かったのでまとめて毎年、何がしかを贈っていた。それが今年は途絶えた。

 今までに義捐金の分配があっただけで、行政からは見舞金も一時金もなにも入ってきていないらしい。当該の被災地の人々はみなそういうことであろうから、困っているだろうと考えられる。いったい、何がどうしてこうなっているのだろう。義兄にはそれ以外にも不安や心配事がいっぱいだ。

 新しい口座を聞いてきていたから月曜、火曜と振り込むことにした。それにしても銀行もまともに営業できていない、基本業務は内陸部の近隣の支店で処理するので時間がかかるらしい。それで銀行の前は行列になっているとのことだ。

 窓を思いっきり開け放つのが好きだ。好きだった。いい陽気になった。晴れ渡る。しかし、あの日以来、開け放つ気にもなれない。が、そうしていてもしょうがないので布団を干す。あの日以来のあの爆発あの溶融(今頃になってそうだと認識された)で危機は迫っている。だからといってどうこうしているわけではない。多かれ少なかれ(それが問題だろうが)人工的放射能の環境下に棲息せざるをえない状態になっている。海などはとくにとりかえしのつかないことになっていっていると考えられる。多くの思考停止と思い直しを繰り返しながら、漠然と「日頃の生活」をおくろうとしている。YOGA、今だけのことを静かに考える。

 被災後生き残ったもろみで絞られた地酒「伏見男山」の一升瓶を持ってこれから飲み会の東京の会場に行こうと思う。皆に予告しておいた。かろうじて作られたわずか320本のうちの数本、そのうちの1本だ。その男山本店は大島航路に面した海沿いにあった。ここは魚町という。その名のとおり昔は魚市場があって賑わいの一等地だった。そこに構えたお店は大正年間につくられたモダンな建物だった。津波に呑まれ崩落し上階部だけが残った。そして実家との間の家はみな流された。「全壊」に等しいが実家の並びの一角は建物が残った。だから、実家から男山本店の痕跡たる上階部が目の前に見える。工場は実家の裏手を少し上ったところで、正門前まで水は押し寄せたがそこで止まったらしい。実家からはすぐそこだという感覚だ、あの日、四の五の言わずに何故逃げなかったのか。義父母だけがそうだったわけではない。生き残ったつれあいの友人や義兄も、家に2階があって、いやその先の物干し場があって、いや3階、4階があって、それもなにも建物がながされなくって一命をとりとめている。一瞬に近いことは紙一重で運命を分けた。逃げ遅れた人、家屋に居て一緒に流された人、逃げたが道路に出た人、様々なひとが犠牲者25,000人近くのひとりひとりになっている。

 百日目ぐらいにあたるからと摺沢の叔母の音頭もあって来月下旬に葬儀と、千厩の従兄弟が発起人になってくれて「偲ぶ会」を催すことになった。それに行く準備を始める。長男も行くと決めた。

2011年5月14日土曜日

復興の地酒



 つれあいが気仙沼の地酒「伏見男山」(銘柄は「蒼天伝」)を買い求めてきました。
 実家と同じ町内にある酒造元「男山本店」は観光桟橋という海に面したところにあり、大正時代につくられた建物は市の歴史的建造物に指定されておりました。このたびの津波の直撃を受け、上階部分を残して崩落しました。しかしながら、工場は少し山手にあり不幸中の幸いで被災を免れました。まさしく、津波は門の手前まで来たそうです。実家のほんの裏手のところです。もろみを仕込んで仕上がりを待つばかりであったそうですが、発酵させたもろみを絞るタイミングに電気が復旧しないために設備を動かせず半分あきらめるところだったそうです。「頑張って造れば、気仙沼の復興の兆しになる」との励ましと建設会社からの発電機の提供を受け、困難な中、泊まり込みでお酒の製造にこぎつけたというものです。当時の被災者には過酷な雪の降るような気温が、もろみには幸いして製品化に間に合いました。このことは報道もされ、知る人ぞ知るシンボルのお酒になりました。地元のお酒、漁師のお酒として親しまれてきたそうです。同社の得意先の多くは地元のお酒屋さんと飲食店だったそうで、その皆さんが壊滅的打撃を受けました。復興のお酒として支援のお客様があるときはいいが、一過性ではなくリピートの顧客を開拓しなければいけない課題と、やはり地元に密着した営業で地元に貢献するかたちでともに復興したい課題を抱えているそうです。

2011年5月12日木曜日

昨夜はまぐろの刺身

 被災地のサンダーさんからまぐろの柵がどっさり届いた。ご主人の実家が魚屋さんだったそうだ、今回の津波ですべて流された。だが、負けてはいない。つてを頼って内陸部の千厩というところでお店を立ち上げられたという。それでまぐろのいいのがあったら送っておいてと依頼していたそうだ。食べきれないほどあったので、息子を呼んで夕食にした。息子が仕事から帰ってきたのは10時前で駅まで迎えに行った、現場は大変だ。我が家ではまぐろは贅沢だということであまり買ったことがない、稀に買うことがあればいつも口の中に筋がのこるような程度のものしか口にしたことがない。まぐろってこんなになめらかだったっけ。御礼のメールをつれあいが送れば「どんなものかわからないけど…」と謙遜した返信だったけれど、まことにおいしいものをいただいてしまった。この間はお見舞いのお礼にと「ひとめぼれ」を送っていただいたばかりだったのに。

2011年5月10日火曜日

安らかに

 自分がもし死ぬことになったら恐らく未練がましいと思う。
 もっとおいしいものを食べたかったとか、いろんなところに行きたかったとか、見苦しく、みっともなく…だ。可能性がある。
 しかし、他人事なら「人間いつかは死ぬ」のだから仕方のないことだと思っている。だいたい60年も生きられたらいいではないかと思っているふしがある。まだあの歳で亡くなって可哀そうだと言うこと自体、意味がないではないかと思ってしまう。「充分生きた」と他人事なら思っている。

 叔母さんは世間体を気にしてか帰って来ていたことを母にも言わなかった。悦ちゃんは私が小学校にあがったとき6年生だったから60を幾つか過ぎていた。写真の学校を出て、結婚もせず定職に就いたようにもなく、放浪の末、母親のいる実家に転がり込んでいた。いつか、兄と一緒に叔母のところに前触れなしに挨拶に行って鉢合わせしたことがあった。一昨年母の臨終と葬儀のときには足腰弱って呆けた叔母さんを送り迎えしていた。態度はあくまでも控えめだった。

 その従兄弟の悦ちゃんが亡くなったと土曜日に姉から連絡があった。

 私達兄弟で花輪と香典を送った、葬儀は日曜日のことだった。

 悦ちゃんは双子だったから二男だったのか三男だったのかは知らない。ふるさとにただ一人いた従兄弟だった。

快速かな

いつもとは違う時間帯に遅く我が家を出た。

乗り換えたのは最終目的地ではないところに行く快速だった。幸い一駅で座れた。
だから、どこかで乗り換えなくてはいけないと思いながら、岩波新書「大地動乱の時代」を読みつつ、ついうとうととしてしまった。はっと気付いたら向こうのホームに併走して走る電車が止まっている。隣の人も向かいの人も乗り換える。乗り換えだと思い込んでしまい、そして周りにつられてしまい乗り換えた。そうしたら運のいいことにまた座れた。何も考えずに再び眠り込もうとする。ただ走っていてどうしても様子が違う。どう考えても止まる駅の数が多い。もう着いてもいいころなのになかなか着かない。そうしているうちに準急の止まる駅に着いた。そこでおかしいと気が付けばよかったのに、なにがどうなっているのかぐずぐず考えているうちに準急は行ってしまった。これは最終駅までずっと止まり続ける各駅停車だとようやく自覚する。そして最終駅まであと一駅だというところでも停車しもう一本準急に追い抜かれてしまった。
 不思議な日だった。それでいつもより30分は遅れてようやく職場についた。

 結局私の生き方はそういうことなのだろうと、変に納得してしまった。遅かれ早かれ、多かろうと少なかろうと、そうなのかもしれない。

 有料の特急、快速急行、急行、通勤急行、快速、通勤準急、準急、各駅停車、複雑な運行が日々営まれる。次のなにがしかの電車までひっきりなしに電車は入ってくる。
 しかし、「計画停電」のとき、実施された準急と各駅停車だけの間引き運行は体験してみれば日常の急行に乗るときよりさほど遅くもなく、そして混むこともなく通勤できた。シンプルな方がよほど快適なのではないかと思った次第。

 過剰な電気、取り返しのつかない未来とこれからの安全、原発は要らない。そう思っている。