2009年12月31日木曜日

年の節目に


 四人のうちの二人の息子は今日まで仕事、来られないという。それで娘と息子とが来て四人で大晦日の夕食。それでも四人だと揃える皿が多いなと久しぶりに感じる、昨年の今ごろはまだ息子が同居していたので普通のことだったのだが。今度のお正月は喪中ということでとくに本格的なおせちは用意しないことにした。そして、何かあればいつでも出て行けるようにはした。だから、大掃除程度でさほど忙しくない年の瀬だった。
 年越し蕎麦、それに東京桧原村の「とろ刺身こんにゃく」、宮城の牡蠣を使ったフライ、つぶ貝の炊き込みご飯。片付けは我家では“ロビタ”と呼んでいる食洗機をこれまた久しぶりに使う。

 今朝起きたときは未来社会のことを考えていたのだがすっかり忘れた。何か大事なことをいつも先送りして生きてきたように思う、「明日にしよう、いつかやろう」と。それでいいときもあるが、いつも中身もなく急いで生きてきたように思う。悪循環に陥っている労働と経済事情で来る年も平穏だとは思えない。しかし、少しでもよくなるようにと願う、私自身何ができるわけでもなく微力でしかないが。一日一日を大事にしなければとあらためて思う一年の終わりの日だ。

2009年12月30日水曜日

我家の振り返り


 職はおろか住処を失った多くの人たちのことに、いたたまれない気持ちで今年は明けた。目の前で聴いた湯浅誠氏の「恐い話」と主張が頭にこびりついている。自公政権が退場したのは溜飲が下がる思いだったが、本質的に働くひとのための政府が必要だと思っている。

 「大きな家に車が2台」の生活で幸せになれなかったとはアイスランドの首相の言葉。この国は金融バブルが破綻した。私の知るのは漁場豊かな水産物と地熱発電とそして米軍基地経済の90年代。初めて訪れた時の印象は「木のない国土」だった。三菱製の車が走り回っていた。それでその債権の替わりにというのか、あまり豊かではないこの国からは主に三菱系の商社が水産原料を多く輸入していた。素敵なセーターがあってペアの柄を買ってお土産にもってきたのを今でも重宝している。その後のアイスランドにそんな金融バブルの時代があったとは想像ができない。
 「幸せ」をお金で買ってしまったのかもしれない。ミレーの晩鐘、のような畑仕事を終えた姿をイメージした。そして見上げれば立錐型をした岳、そして温暖な気候と豊富なお湯。積み上げもつながりも持っていない。

 普段、いろいろな仕事を引き受けてこなしていたようで、長男に「裁判員裁判」の仕事が偶々早くにまわってきて注目を浴びた。組織力を持つ検察にたいして、クライアントとの連携をしっかりさせ、市民である裁判員へ伝えることの斬新さをつくりだしていた。終わってから、我家に報道された新聞記事をどさっと持ってきたのには「おやおや」と苦笑してしまった。

 そうこうしているうちに高齢の母を亡くした。とくに孝行をしたわけでもない、むしろ逆だっただろう。ながい長い独り暮らしを気丈に過ごしたが、気ままだったのだろうが寂しくもあっただろう。晩年、認知症が進んだころはその気持ちを素直に示すようになった。たまに帰るしかないのは仕事があってしかたなかったが、帰るようになったら対話にはならなかった。とうとうその母に寄り添うことはなかった。

 二男が正月に家を出て二人暮しになった。二人になったから暮らし方、考え方に変化が生じた。二人で生きていくことのこれからのあり方を展望するようになった。扶養者がいなくなったせいか「軽く」なった。それと確かに食生活が量から質に変わりつつある。それもストレートではなくジグザグに。カレーをつくれば3日分もあることもあり、逆にそんじょそこらでは手には入りづらい「心のこもったもの」も食卓にあがる、人とのつながりのお陰だ。お金では買えない。
 拘束するのは夫婦お互いだけになったから、妻殿の一念発起、ミュージカルの応募出演を応援した。案の定、可能性と「やりがい」そして新しい「人とのつながり」に目覚めた。

 出て行ったはずのその二男がダブルハッピーとやらで、都内の新居を探していたはずが、予算の関係でたまたま近くに住むことになった。まるで旅に出て行った雄猫が家族を連れて還ってくるようだ。順調に行けば義理の娘と親戚が増え、孫の顔が見られることになる。人と血のつながりが増える。

 憎らしいほど・・・な相方と生きていく。さて、お金で買った「幸せ」をどうしよう。

2009年12月29日火曜日

仕事納め


それで、帰宅したら今宵は三陸産のほたて、あわび、つぶ貝づくし、生協のベーコンと牡蠣とほうれん草の炒め物。娘を呼んで少し酒盛り。芋焼酎、黒糖焼酎はいただいた。

2009年12月28日月曜日

変わった


 ここ最近は古着屋さんで済ませていた。ところが久しぶりに生協のカタログでスラックスを買った。裾も上げてあって2,500円。それが宅配便で届いた。すると、この原価はいくらなのだろう…。
 ご近所のリサイクル屋さんが全国チェーンのFCから離れて独立した。それでは立ち行かなくなったらしく、今度はブランドリサイクル屋さんとかに模様替えをしてガラリとイメージを変えてしまった。前はつなぎ服を着た若い店員さん達が立ち働いていたが、今度はスーツに身を包んだ見知らぬ店員さんたちがほほえみながら待ち構えている。私にとってはつまらないブランド品がガラスのショーケースに並べてあるちゃらちゃらしたお店になったような気がする。まあ、頑張ってくれ…。

2009年12月27日日曜日

解決、未解決


 日曜日の休みの夕方にお風呂に入りながら考えた。人間いつかは必ず死ぬ。身上潰すほどのものもないが、無理することもない。全国の不安だ、心配だという声に向き合い、職場では上昇泳ぎをする平目を横目で見て「むふっ」としたりとか、より早くもっとたくさんと旗振る勘違いの参謀さんをやりすごすように心身管理をしたりしている。

 光ファイバーに変えたとき、無線LANもそれに対応するように切り替えなければならなかったようだ。コールセンターにかけまくり、ルーターのメーカーの有料の案内にたどりついて解決した。回線を変えたときに、そういうことを一言助言してもらえればよかったと思うが、なんの案内もなかった。コールセンターにかけてもその原因の可能性には言及はなく、何度か照会するうちにその助言になった。結局、つながりづらいインターネットを開いて検索してメーカーの相談室にたどりつき、あっさりと解決した。その間インターネットにつながらないということは、この世と人とのつながりがまるで切れてしまっていくような不安を覚えた。パソコンもインターネットもよくわからねぇと言いながら、実は錯覚に陥っていたような気がする。

 「よく懐きます、3ヶ月」という子猫の里親募集のビラを電柱にみつけ、考えあぐねた。一匹は黒でもう一匹はトラだ。団地のなかの元薬局のお宅が貸家になって、尋ね先は東京の電話番号の張り紙があった。 「怯えの時代」(内山節/09年2月/新潮選書)を読む。
 政権が変わったからといって格差不穏の社会が解決したわけではない。時代はいっそう厳しくなっている、沖縄の海兵隊の基地の問題は解決しない方向のようだ。そんなことで年を越そうとしている。

2009年12月26日土曜日

臼杵せんべい


 昔2大政党と言えば自民党と社会党だった。
 九州を北から南に終着駅の「西鹿児島駅」(現在は鹿児島中央駅)まで行くのは2通りあって、西回り(西海岸を行くルート)が鹿児島本線、東回り(東海岸を行く)のが日豊本線。
 東京にでも就職してしまえば乗る機会はめったにないだろうと考えて、大学を卒業して最後の帰郷のルートはわざわざ日豊本線をとった。小倉までは夜行、そして乗り換える。初めて見る車窓の風景。彼女は初めての九州。延岡で途中下車して当時まだ残っていたローカルの高千穂線にも寄り道した(ほどなく廃線されたので貴重な経験になった)。
 ところが皮肉なことに、就職して赴任先が博多、そして営業先が主に大分・宮崎だった。それでいくらでも日豊本線にはお世話になることになった。今のJR九州の列車は実にセンスがいいが、当時の特急は味も素っ気もない黄土色の車体の特急、乗車時間が恐ろしく長く何度も乗ればひどく退屈に思えた。今ほどの快適さは何もなかった。
 得意先に行けば社会党の代議士さんのポスターが実に堂々と貼ってあった。労働組合(地区労)が母体になってできた得意先がこの沿線には多数あって歴史を背負っていた。また、九州のあっちこっちの旧炭鉱地帯には炭労を母体にした得意先があって往時がしのばれた。社会党にはレッキとした派閥があって同じ得意先で隣同士でも実は仲が悪かった。大分は瀬戸内海に面しているせいか、同じ九州人でも性格が穏やかに感じる。昔この本線沿いには、特急が止まる駅ごとに得意先があったそうだが、私が赴任したころには幾つかになっていた。臼杵は古い城下町で実に閑静な街並みだった。古くは戦国大名の大友宗麟の居城だったところだ。得意先の拠点があったので何度も通った。若くて元気が良かったので、あるとき専務さんから名物のふぐの刺身をご馳走してもらった。ここでは肝も出す。プロが調理するので問題はないが最初はひけた。透けるほど薄く切った切り身を丸い絵皿に放射状に広げて盛り付ける。それはどこでもそうだが、それが大変大きな丸皿で出てきたので、その皿と同じくらい目を丸くした。この世にこれほどうまいものがあるのかと思った。「どうだ参ったか」「恐れ入りました」まさにその境地だった。
 あとで考えればそれほど年は離れていなかったのだが、仕入れ担当の板井さんは高校を出て働いていたからベテランに見えた。穏やかな性格で、値切られもしたが相談にもよく乗ってもらった。臼杵は実に静かな街という印象が強く残っている。
 山本さんの故郷の佐渡の集落では「山本」と「臼杵」姓が古い家であるらしい。それで、何か所以・由来があるのではないかと、山本さんの兄上ははるばる臼杵まで訪ねて行ったそうである。こういうとき自治労仲間は役に立つ。母校の大学では網野善彦さんの歴史論の薫陶を受けたらしい。臼杵市そのものに「臼杵」姓はなく、その周辺の郡部に見つけられたらしい。「臼杵」にしても「高千穂」にしても佐渡にあったり、信州にあったり、何か古代の勇躍・つながりを想像できておもしろい。臼杵も佐渡も冬の魚が旨い…。
 「臼杵せんべい」なつかしい名物。たまたま臼杵の方から送っていただいたその日に、二男が大分生まれの大分育ちの彼女を連れてきて皆で頬張る。大分からは初めての社会党の総理が生まれた。そしてその社会党は無くなった(現在の社民党が後身だが)。得意先も県内で合併してひとつになって、杵築も臼杵も津久見も行くことはなくなった。
 「豊の国」古代・中世では仏教文化を育んだ先進地域だったようだ。

2009年12月24日木曜日

弱った・・・


クリスマス・イヴだ。ストレッチをするのだが、あいかわらず妊娠したネコみたいに前屈ができない。つらいけどやったあとは清々しい。足の裏は様々なツボがあるそうで刺激をするといいそうな。

インターネットに接続しなくなった。コールセンターにかけて助言を得るが不具合が直らない。だましだまし繋ぐがリンクを開けたりするとブチッと切れる。無線LANのせいでもないようだ。パソコンのせいでもないような気がする。最近、ADSLから光ナントカに換えたばかりだ。ほとほと弱ったものだ。